放浪日記2005

筆・さいふうめい


2005年10 月19日(水)
  本当にご無沙汰してしまいました。『人は見た目が9割』(新潮社)という、私の新刊が出ました。10月16日に書店に並びました。これは、竹内一郎という本名で書きました。

「さいふうめい」は基本的に私の右脳、「竹内一郎」は左脳と、大雑把に分けております。
元々は、戯曲を書くときは「さいふうめい」。演出をするときは「竹内一郎」と分けていたのですが、「さいふうめい」の知名度が高いため、そうも行かないこともあり、ごっちゃになったりしておりました。
 九州大谷短期大学で演劇学科の学生に「非言語(ノンバーバル)コミュニケーション」という科目を教え始めたのが、8年前。その後、東京工芸大学芸術学部でも、引き継いでその科目をやっております。アメリカでは盛んな「非言語コミュニケーション」ですが、日本にいい入門書がありませんでした。20年以上前に、アメリカで出版された本の翻訳が一冊あるのみです。日本で授業に使うには、随分古めかしい内容でした。
仕方なく自分で教材を作りはじめました。最初は「日本人のノンバーバル行動」を色んなジャンルから切り貼りして資料を作っていたのですが、そのうち講義ノートが溜まってまいりました。それを一冊にまとめたのが、本書です。
まだ、方法論のない新しいジャンルです。これでいいのだろうか、と思う一方で、誰かがやらない限り始まらないではないか、と開き直って書きました。
私自身、骨の折れる仕事を終えた直後なので、あまり難しくしたくはありませんでした。新書の形が一番いいと考えました。とはいえ、最近の新書らしく、すごいタイトル「人は見た目が9割」、すごいコピー「理屈はルックスに勝てない」で、書店に並んでいます。本の最後には私の顔写真が載っています。「だったら、あなたのルックスはどうなんだ?」と突っ込みを入れられそうです。
とはいえ、日本で最初の「非言語コミュニケーション」の入門書です。精一杯、力を注ぎました。
以下は、新潮社の担当が作ってくれたコピーです。非常にうまいです。
「理屈はルックスに勝てない。日本人のための『非言語コミュニケーション』入門!
喋りはうまいのに信用できない人と、無口でも説得力にあふれた人の差はどこにあるのか。女性の嘘を見破りにくい理由とは何か。すべてを左右しているのは「見た目」だった!
顔つき、仕草、目つき、匂い、色、温度、距離等々、私たちを取り巻く言葉以外の膨大な情報が持つ意味を考える。心理学、社会学からマンガ、演劇まであらゆるジャンルの知識を駆使した日本人のための『非言語コミュニケーション』入門」
久し振りで、放浪日記の文体が変わりました。気分がこんな感じなのです。多分、しばらくはこういう文体になるのではないか、と思っております



 






2005年6 月12日(日)
  新百合ヶ丘で「ミリオンダラー ベイビー」を観る。
クリント・イーストウッドが、自分の創りたい映画を納得のいく形で創った作品。スタッフも、クリントの創りたい物をよく理解し、作品世界を支えている。
クリント、モーガン・フリーマン、ヒラリー・スワンク。この三人の芝居には、心洗われる。いい役者によるいい芝居を観ることの、陶酔。こういう映画があるから、映画人になりたいと思う若者が、いくらでも出てくる。

俺、しばらく前に、「真夜中の野次さん、喜多さん」を観て、いいところもあるんだが、なんて思ったが、あのレベルで肯定しちゃいけないよな。(朝日新聞の書評では、あの映画を誉めていたな。でもね、小劇場をいっぱい観ていれば、あの書評ほど感激することもないぜ)。
先日、東映の若手プロデューサー・Gと話したときのこと。Gも心の底では、クリントのように創りたい映画はある。だが、お金を集めなければならない。社内のコンセンサスを得なければならない。そうしていくうちに、「ビジネスモデル」型の映画になってしまう。つまり、「今、こんなマンガやこんな感じのテレビが人気だから、こんな感じの作品なら資金を回収できる」と。作品は、結局「この役者を使えばPRになるから、この役は、そういう役に変えてくれ」と二転三転して、結局、最初は何がやりたかったのか、わからなくなることも多い。――だが、やはり、自分が創りたい物を創りたい、と。
で、それでも日本最大のヒット(!)作品は「踊る大走査線」である。ビジネスモデル型で生まれている。

「ミリオンダラー・ベイビー」を、仮に志(こころざし)型と呼ぶとすると、今の日本では、ビジネスモデル型の方が、外れが少ない。(といっても、最近は殆ど観ないが)。観たくなくなった理由は、ビジネスモデル型は、詰まるところ「踊る大走査線」を目指すことになるからなのだ。
志型の殆どは、独りよがりで、10分観ていられないものが殆どだ。(といっても、最近は殆ど観ていないが)。単館でチロッとやって、DVDで回収すればいいや、ってのと、宣伝の段階では区別が付かないのもあるし。そうやって、志型を観ることもなくなってしまった。
で、クリントが何故、今、創りたい映画を通じ合えるスタッフと創れるか、といえば、結局、「ダーティ・ハリー」以来、色んな映画の仲間と、映画の話をずうっとしてきたんじゃないかと、思うんだな。もちろん、クリントが大スターだから、できることでもある。先ず、クリントじゃなくては、お金が集まらないし。

で、俺、思うことがあって、「ダーティ・ハリー」以来のクリントの映画を、まとめて観てみようかな、と思っている。最近胸を打つ作品を創り続けているクリントの足跡を、追ってみようかな、と。
Gも同じことを考えているんじゃないかな、と。





 




2005年6 月1日(火)
  最近、あまり書いていないので、サンデー毎日の先週号に載せたコラム「私の秘められた書架」を、載せることにした。頑張って「放浪日記」を書こうとしない、私の気分が表れていると思う。  

 買って得したな、と思えるエッセイを読みたい。エッセイは作家の気付きが勝負である。気付きには、読者を唸らせるワザが光っていて欲しい。「仕込み」に時間がかかっていて、キレと深みが渾然一体となっているエッセイ――。 
 私は、週刊誌に連載しているような人のエッセイは、基本的に読まない。毎週毎週身の周りに、書くに値するほど面白いことが起こる人がいるとは思えない。それ以前に、締め切りを毎週きちんと守っていること自体、随分窮屈な生活をしていると思しい。何本連載を抱えている、というのが勲章だったりするが、仕事の「量」で頑張りたいなら、作家ではなく、トヨタにでも勤めた方がいいのではないか、と思う。私はそんな人たちの気付きには興味がない。
 
 で、私は、小沢昭一のエッセイで本になったものは全部読んでいる。この人は、世間の仕組み(資本主義といえばいいのか、民主主義といえばいいのか)に媚びていない。自分独自の流儀で生きているし、肩肘はらずに本音を呟いて、敵を作る感じもない