あざみ

 

                         さいふうめい

 

 

 舞台には、三つの椅子が並んでいる。

 そのうちのひとつに、バイオリンが無造作に置いてある。

 

あさみ(ーー礼)

 こんばんわ。

 今日はアザミの話を聞いて下さい。アザミと言っても今日のアザミは道端に咲

いてる紫色の花のことじゃありません。

 ここでお話しするアザミは十二歳の少女です。

 おかっぱ頭で、頬にそばかすがあり、小さい頃から感じやすく、その分だけ、

目元が少しキツい女の子でした。

 十年一昔と言いますから、もう二昔半も前の話です。

 アザミは、長崎は島原のはずれにある、小さな漁村に生まれ育ちました。四人

兄弟の一番上で。下に二人の弟と、妹がいます。早くから父親を亡くしたので、

母親に女手ひとつで育てられました。母親は、近所の漁師の家で、魚を開いたり

する下働きに出ています。アザミたち兄弟も、海草や貝を拾ってきては、家計を

助けるのですが、貧しさは相変わらず。

 兄弟はみんな学校には行きませんでした。アザミたちにとって、学校は冷たい

ところです。校門をくぐろうにも、重苦しい空気に胸が締めつけられ、足が前に

進まないのです。村には、アザミたちのような子供が他にもいました。皆一様に

貧しい家の子だったようです。

 村を見下ろす丘の中腹には、小さなカトリックの教会がありました。アザミは

よくその教会に遊びに行きました。夏になると教会の庭にはひまわりの花がたく

さん咲きます。あざみはシスターからもらったひまわりの種を自分の家にも蒔い

たものです。

 ある日、アザミが教会から帰ってくると、三和土(たたき)で母親が男の人と

話し込んでいました。アザミを見た母親はあわてて男に人から貰った一万円札の

束をポケットに隠します。

「あさみ、母ちゃん、おまえん、頼みごとんあっと。こん人は、比留間さん

ちゅうてね。二年前に芙美姉ちゃんに、仕事ばくれらっしゃったと。芙美はね…

…病気で死んだげな。ほんに、かわいそうかこつばしたよ。そいば、教えにね、

わざわざ、来てくれらっしゃったと」

 先ほど四人兄弟と言いましたが、アザミの上にも芙美というお姉さんがいたの

です。

 アザミは比留間さんの事を覚えていました。比留間さんと一緒に芙美が遠くへ

行ってしまったこと。そして、次の日母親に洋服を買ってもらったこと。しばら

くはご馳走が続いたこと。

 目の前の比留間さんは、芙美は比留間さんに売られたのだ、と、あとになって

知りました。

 あの日の比留間さんと同じでした。なげしに頭が届きそうな大男。ひげだらけ

の顔。厚い口唇、太い腕。でも、不思議と恐いとは思いませんでした。

 あざみ母親に何をいえばいいのか、すぐに察しました。

「よかよ。うちが芙美姉ちゃんの代わりに売られて行くけん」

 

 次の朝、アザミは一番お気に入りの服を着て、比留間さんのオート三輪の荷台

に乗り込みます。弟が「姉ちゃん、いつ帰ってくると?」と訊いても、アザミは

口をつぐんだまま。やがてオート三輪のエンジンがかかり、遠ざかる母親と弟妹

たちに、アザミはホロから乗り出して手を振ります。だんだんと小さくなり、景

色に吸い込まれていく家を、初めて見たような気がしました。アザミは一度も遠

くに出かけたことがなかったのです。

 

 比留間さんは、縁日やお祭に出る見世物小屋を、流しで回る一匹狼の旅芸人で

した。ヘビ女、軽術師などに混じって演る比留間さんの芸は、腕力を見せ物にす

る野蛮なもので、あだ名が「ヒグマ」。厚い胸板をはだけ、のっしのっしと歩く

比留間さん。その姿がまるでヒグマのようなのです。

 

「(ゆっくりと鎖を拾い、高々と持ち上げる)これを見て下さい。(客の鼻先に

鎖を突き出す)鎖ですね。種も仕掛も有りません。調べて下さい。切れませんね。

5ミリ綱の鎖です。これを胸に巻いて、肺の力で切ってみせます。(神妙な顔)

いいですか。(胸に巻きつける)真似をしないで下さい。心臓が破裂して死んだ

人がいます。(息を大きく吸い込む)うーッ(と動物的な声。鎖がジャラリと音

を立てて落ちる。再び高々と持ち上げる)」

 見物は溜息をもらしながら拍手をするのですが、アザミには何が何だかわから

ない芸でした。なぜ命がけでそんな事をするのかーー? ただア然とするばかり

です。

 

 その夜から比留間さんはアザミに芸を仕込みました。

 先ず玉乗り。比留間さんが先にお手本を見せてくれました。それはとても鮮や

かな芸でした。

「いいか、ちゃんとした芸で、銭をとるんだ。俺はインチキは嫌いだ。さあ、玉

乗りだ。やってみろ。……ひどいな。やめろ、やめろ。いくら、稽古しても無駄

だ。

 ジャグラーはどうだ。(やってみる)……もういい。よせ……。

 曲芸……。曲芸か……。(アザミをみる)……無理だな。

 なに……? なぜ俺が、玉乗りをやらないのか……? 鎖切りよりよほど上手

い? (独り言)鎖切りは野蛮か……(語気荒く)いらんこと、聞くな! やめ

だ、やめ。飯だ。腹が減った。飯をつくれ。

 ……うどんをこんなに煮込む奴があるか。これじゃあ水とんだ。(食べてみる)

ひどいもんだ。こんなまずいものは、戦後のカラスだって食わないぞ。お前は使

い物にならないな。ババを引いちまったよ。……しようがない。これだ。これを

覚えろ。でないとメシをやらないぞ」

 比留間さんがアザミにくれたのは、色のはげおちた小さなバイオリン。手に取

った時、ほのかに芙美姉ちゃんの臭いがしたような気がしました。

 

 比留間さんは、バイオリンの持ち方を教えてくれます。何度教えてもおぼえの

悪いアザミにムチがとび、アザミの手の甲はミミズばれです。

「(甲をさすりながら)明日は雨だね」

「どうしてわかる」

「雨の前の日は小指の付け根がズキズキ痛むんだよ」

「気持ちの悪いガキだ。荷台に乗れ。ここで寝るんだ」

「……」

「早く乗れ」

 この夜、アザミははじめての経験をしました。服を脱がされ、比留間さんにの

しかかられ、逃げようとすると、

「おれはお前を金で買ったんだ。いうことをきけ」

 アザミは、目を開けて、奥歯を噛んで、時間が経つのを待ちました。ツーッと

糸をひく涙を、はじめて流しました。

 ことが終わると、比留間さんは外をみながらタバコを吸います。

「お前、名前、何て言うんだ。カカアに聞いたよ。アザミって言うんだろ。合っ

てるよ。」

 本当の名前は、アサミでした。比留間さんの聞き違いです。でも、アザミでい

いのです。昨日は「アサミ」、今日は「アザミ」。明日は、また、他の名前にな

るのかも知れません。

 

 翌日からアザミも見世物小屋に出るようになりました。比留間さんが舞台に出

る時と、鎖を切って客に拍手を貰う時だけ、バイオリンで景気付けの音を出しま

す。

 小屋を渡り歩くうちにアザミはいろんなことを覚えました。ヘビ少女には普段

はちゃんと足があること。ろくろっ首の女の人は、体をやる人と首をやる人の二

人がいること。三十枚のカワラを気合いで割るおじさんは、楽屋で割れたカワラ

を糊で貼り合わせていること。そして、お客の多くは、そういう事情を知ったう

えで小屋に足を運んでいるということ。十二歳のアザミは、むこう側の景色をポ

カンとながめているような感じです。その中で比留間さんの鎖切りだけが、タネ

も仕掛けもないものでした。(アザミは比留間さんの鎖で楽しそうに遊ぶ)

 

 そうして、日本中の縁日やお祭りをオート三輪で回ります。日が経ち、アザミ

のバイオリンは少しずつ上達しますが、比留間さんとの仕事以外の会話は、長く

は続かずすぐに途切れてしまいます。

「明日はどこに行くの?」

「明日決める」

「比留間さん、生まれ故郷はどこなの?」

「忘れた」

「今晩、何食べる?」

「お前がつくったものだ」

 

 仕事が終わると、参道の一本奥まった露路に立っている女の人のところに、比

留間さんは出かけます。どこの縁日にもそういう場所はあり、お化粧の匂いのす

る女の人がポツリポツリと立っていました。

「比留間さん。私と同じこと外でもするんでしょ。芙美姉ちゃんともしたんだよ

ね。男の人は誰とでも同じことをするの?」

「そんなことは親父にでも訊け。」

 比留間さんは、アザミの父親がとうにいないのを知っているのでした。

 ひとり残されたアザミは、線路のある場所を目指します。大きな河に架かった

鉄橋でも、街角の踏み切りでもどこでもいいのです。銀色に、どこまでも伸びる

二本のレールを見ながら目を閉じます。

 そこではアザミは自由に、とても気持ち良く空を舞っています。青い空に白い

翼がぴったりと映えています。空から見る地上はいろんな顔を見せてくれました。

 

 

 幕前六ページ

 

 結局比留間さんは留置場行き。団長さんも事情調取を受け、営業停止にならな

いだけ良かったという感じです。比留間さんも松ちゃんも、サーカスをクビにな

りました。アザミは団長さんに「入団しないか」と誘われたのですが、居ても立

ってもいられない気持ちです。そんな時いつもそうするように、暗くなってから、

線路に向かいました。

「何もかもおわりだわ。もう生きているのがいやになったよ。どうして私が生ま

れて、比留間さんが生まれて、松ちゃんが生まれたの?どうして、出会わなきゃ

ならないの?」

 アザミはどこまでいっても交わらない二本のレールを見ながら目を閉じます。

 そんな時、夜の風に乗って、このメロディがアザミの耳に入ってきたのです。

(「道」のテーマ)アザミは音楽にひかれて河原へと向かいます。音の主は松ち

ゃんでした。悪いのは松ちゃんも同じなのに、松ちゃんは留置場にいかずにすん

だようです。

「どうしておれだけ助かったのかって? おれはいつも運がいいのさ。ヒグマは

いつも運が悪い。俺が転ぶとそこに1万円札が落ちているのさ。ヒグマが転ぶと、

犬の糞が落ちているんだ。……どうして俺だけ運がいいのか……?そうだな。お

れは先が短かいんじゃないかな。……うそだよ。(歩いて、河の水に手を浸し)

アザミ。やってごらん。河の水は冷たいなあ。触ってみると本当に冷たい。この

水は海につながっているんだ。お前、漁師町の生まれだったよな。この水の先に

お前の家があるんだ。(アザミの顔を見て)お前の顔はおかしいなあ。親父かお

ふくろは、お前の顔を見て、アザミって名前付けたんだぞ、きっと。前から一度

言おうと思ってたんだけど、ヒグマとは別れろ。いい機会だ。あいつといてもい

いことなんかないぞ。おれにはわかる。でもお前、どうしてあいつから逃げない

んだ。それがわからないんだな。」

「何回も逃げたよ。でも必ず見つかる。バッタリ、会っちゃうんだ。不思議に会

ってしまうんだよ。そのたんびに比留間さんは殴るんだ。ボロボロになるまで私

を殴るんだよ。二、三日は痛みで寝返りもうてないんだから。」

「そんな奴は見捨ててしまえ。アザミ。団のみんなといっしょに行けばいいんだ

よ」

「みんなと行っても同じだよ。きっといいことないよ。何故ってわからないけど。

私はね、小さい時森の中でこんな話を聞いたんだ。話をしたのは男の人で、お父

だか誰だかはわからない。いまは、黒い影しか思い出せないんだ。でも、森の中

だってことは覚えてる。どの木とどの木の間かまで知っているよ。その人は黄色

い馬の話をしてくれたんだ。馬は次の日、自分が殺されることを勘付いちゃった

んだって。肉にされることをね。そうして牧場を逃げ出した。国道を北へ北へ走

る。どうして北に走ったのかな。でも、北に向かったんだ。追ってを振り切って、

ひとり走る。二日も三日も走った時に、馬はクタクタに疲れてしまったんだ。お

腹も減るしね。もう、走れない……。その時に黄色い馬は気が付いたんだ。自分

を待っている所、自分の行く所がないことをね」

「お前に、そんな話をしたのは誰なんだ、誰なんだ……。そうだな。そうだった。

誰だか思い出せないんだよな。で、アザミ、お前、何がやりたいんだ? ……な

いのか。じゃあ、質問を変えよう。お前、何ができる」

「なんにもできないよ。料理もできないし、ジャクラーも玉乗りもできない。こ

んな変な顔だし、男と変なことをするのも嫌い。私、何をしたらいいんだろう

(困る)……」

「悪いことを聞いちゃったな……。いや、あのな、アザミ。おれといっしょに回

らないか?おれといっしょなら楽しいぞ。おれは学校の勉強は嫌いだったけど、

人生を楽しむ術を知ってるんだ。ヒグマにコキ使われても、ボロぞうきんみたい

に汚くスリ切れるだけだ。やめろ、やめろ。(アザミを見る。アザミは比留間は

私を食べさせてくれるのだ、と言っている)……そうか、ヒグマは食わせてくれ

たんだもんな、お前を。恩人は恩人だよな。

 でも、どうして奴はアザミを捨てないんだ? 普通なら捨てるぞ。足手まとい

なだけだもん。芸はできないだろう? 飯は作れない。お前、男と寝るとき目を

開けるだろう? マグロみたいにごろんと転がっているだけの女、男は嫌いなん

だよ。そんなの、おれだって捨てる。……(気付く)あいつ、お前に気があるん

だ。だから捨てないんだ。そうだよ。言えないんだ、あいつはクマだから。アザ

ミ、あいつは可哀想な奴だ。お前より、もっと可哀想だぞ。お前が捨てたら、あ

いつ、気が狂うぞ。

 アザミ、お前は役に立ってるんだ。

 おれ、本で読んだことがあるぞ。この世にあるものは、どんなものでも何かの

役に立つんだ。ほら、川の中に転がっている石。どれでもいい(さがして)。小さ

くてもいい。ほら、これ。これでも何かの役に立っているんだ。何の役に立って

いるか、それはおれにはわからない。きっと神様だけが知っているんだ。

 でも、何かの役に立つんだ。そう思う。これが何の役にも立たないのなら、全

てのものは、おれたちが見えるものも見えないものも、みんな役に立たない。

(空を見上げて)……星だって同じだと思う。……おれだって、お前だって同じ

だ……」

 それから夜が明けるまで、松ちゃんはアザミにバイオリンを教えてくれました。

アザミは題名を訊きましたが、松ちゃんも知りません。松ちゃんは、もう一度、

「おれといっしょに行かないか」と誘います。

 アザミは困ってしまいました。一緒にいるのは松ちゃんのほうが楽しいけれど、

松ちゃんと一緒では食べられない。でも、比留間さんとなら食べられる。アザミ

は目を伏せて、

「やっぱり、松ちゃんといくよ」

 それでも松ちゃんと一緒にいたくて、

「ねえ、松ちゃん。どうして自分のこと、先が短いて言うの?」

「おれはね、いつも死ぬことを考えているんだ。おれの仕事はいつ死ぬかわから

ないだろう?落ちたら、それでおしまいだ。運が良ければ生きる。運が悪ければ

死ぬ。それだけなんだ。……運は神様が決めてるんだな。」

 夜が明けると松ちゃんは留置場の前まで送ってくれました。

「アザミ、お前にこれをやるよ。スーベニアだ。(懐中時計を差し出す)ガキの

頃、靴磨きをしててな。アメリカに帰るって、常連のアーミーがくれたんだ。ス

ーベニアっていうんだ。壊れて動かなくなったけど、今でもおれの宝物にしてる。

お前にあげる」

「ありがとう」

 

 それから比留間さんが出てくるのを一人で待ちました。アザミははじめて比留

間さんに会いたいと思いました。門が開いて比留間さんが出てくるとアザミは駆

け寄ります。ところが比留間さんの第一声は、

「(威圧的に)なんだ、団の連中といっしょに行かなかったのか?」

 比留間さんは、やはり比留間さんのままでした。そんな風に始まっても、旅は

続きます。二人は海岸で休憩をとりました。汐風に当たるとアザミは生まれ育っ

た浜を思い出します。そして、自分の家がどの方角にあるのかを訊くのが常でし

た。でも、その日は少し気が変わったのです。

「いままではね、ずうっと家に帰りたい帰りたいと思ってたんだよ。でもね、ど

っちでもよくなっちゃった。オート三輪が私の家のような気がするんだ」

「家じゃメシが食えないからな。ここなら食える。人間はそういうもんだ」

 比留間さんは、どうして嬉しいといってくれないのか。アザミには、そういう

ものだと思うより他になかったのかもしれません。

 

 それから三日後のこと。アザミが恐れていたことが起こりました。

 山道で、バッタリ、松ちゃんと会ったんです。松ちゃんは魚つりをしていまし

た。比留間さんが道端に止めてあった松ちゃんの車を見つけてしまったのです。

「ここで、待ってろ。挨拶をしてくる」

 アザミはいやな予感がしました。何かいけないことが起こる。胸さわぎがしま

す。でも、比留間さんを止めることはできません。遠くで二人のやりとりをハラ

ハラしながらながめることしかできませんでした。二人が何を言い争ってるか、

わかりません。でも、そのうち、殴り合いが始まり、殴り合えば、すぐにカタは

付きました。

 松ちゃんはヒザが抜け、そのまま倒れ込んでしまいました。そして、何やらブ

ツブツ言いながら、比留間さんはうつ伏した松ちゃんの顔を力まかせに蹴り上げ

ました。アザミがハッとした時には遅かった。駆け寄って、抱き起こした松ちゃ

んの顔は、すでに血の気がひいていました。

「(感極まって)……松ちゃん、死なないでよ。生きてよ。こんなところで死ん

じゃいやだ。松ちゃん。……(ポケットから時計を出し)ほら、スーベニアだよ。

持ってるよ、松ちゃんのスーベニア。松ちゃん……松ちゃん……。……動いてる。

(おそれ戦き)……動いてるよ、スーベニア。松ちゃん……。松ちゃん……。

(松ちゃんのバイオリンを弾く)

 

 比留間さんは、松ちゃんの死体を片付け、何事もなかったように旅は続きまし

た。ところが、それからというもの、比留間さんの芸を断わる小屋が増えたので

す。それまでは、断わられることなんて、めったになかったのに。

 芸が面白くなかった訳じゃありません。少なくとも比留間さんは同じことをや

っているつもりです。でも客にうけない。だから小屋に敬遠される。めぐり合わ

せが悪くなったのです。

 アザミはと言うと、すっかり元気を失くしてしまいました。目はうつろになり、

食事もノドを通らない。動きも遅くなり、とても舞台に出られる状態ではなくな

ったのです。

 そればかりか、時々うわごとさえ言い出す始末です。

「松ちゃん……死なないで。松ちゃん……生きてよ」

 あの時のことが、頭に貼りついて離れないのです。それどころか、重い心が一

日一日オリのように積み重なっていくのです。

「心配するな、アザミ。バレない。誰も見てなかったんだ!泣くのはよせ。泣く

な。オレまで気が変になるじゃないか!なんだその目は、そんな目でみるな。お

れは、二、三発殴っただけだ。そうだろ!あんなケンカはそこいら中にころがっ

てる。おれだって何度もやってきた。祭じゃ、毎日誰かがやってる。 ……運が

悪かっただけだ。運なんだ、アザミ……。泣くな。ヤメロッ!おれをそういう目

で見るな!」

 そうしている間にも、仕事はどんどん減っていき、その日の食べ物を買うにも

こと欠く始末。比留間さんは混乱した心を押し殺し、なんとか生活を立て直そう

ともがきます。

「(ゆっくりと鎖を拾い、高々と持ち上げる。芸をするのだが、心ここにあらず、

という感じで迫力がない)これを見て下さい。(棒読みのようなしゃべり方であ

る)。鎖ですね。種も仕掛も有りません。調べて下さい。切れませんね。5ミリ

綱の鎖です。これを胸に巻いて、肺の力で切ってみせます。いいですか。真似を

しないで下さい。心臓が破裂して死んだ人がいます。(息を大きく吸い込む)う

ーっ。(鎖は落ちる。だが息は大きく乱れ、足取りも危い)」

 小屋主に足元を見られ、給料は減る一方です。夜の女を買いに行くこともでき

ず、もちろん夜毎ふるえるアザミを抱き寄せることもできません。

 アザミの頭の病気はと言うと、回復するどころか悪くなる一方。うわごとは激

しくなるばかりです。

「アザミ川の水は冷たいな。触ってみると本当に冷たい。この水は海につながっ

ているんだ。この水の先にお前の家があるんだ。」

 毎日続くアザミのうわごとに、比留間さんは耐えかねてしまいます。アザミを

小さな公園のベンチに座らせ、手にバイオリンを握らせました。

「ちょっと、ここで待ってろ。おれはひと稼ぎして、すぐにもどる。ちょっとの

間だ。いいな……」

 比留間さんが何をしようとしているのか、アザミの虚ろな心にもわかりました。

……私はここで捨てられる……。 比留間さんは、オート三輪のエンジン音とい

っしょに、アザミの前から消えていきました。

「アザミ、お前は役に立っているんだ。おれ本で読んだ事があるぞ。この世にあ

るものはどんなものでも何かの役に立つんだ……」

 

 それから、二年が経ちました。

 比留間さんは、もとの元気なヒグマに戻り、旅から旅、小屋から小屋へと渡っ

ています。

 北の寒い港町でのことです。比留間さんが、お寺の境内で休んでいると、どこ

からともなく、あのメロディが聞こえてくるのです。

 比留間さんは、自分の耳を疑いました。アザミを置いてきた場所とは、日本の

端と端です。

 声の主は、近所の孤児院でまかないをしているという女の人でした。鳩にエサ

をやりながらハミングしています。比留間さんは、その曲をどこで覚えたのか尋

ねました。

「随分前のことですけど、うちの孤児院にいた女の子がバイオリンで弾いていた

んです。頭が少し足りなくて、言葉がほとんどないんです。そのかわり、バイオ

リンだけはとても上手で。機嫌がいいとみんなに弾いて聞かせるんです。弾き終

わって、拍手を貰うと、きまって、チョコレートをねだるんです。

 本当に変わった子でしたねえ。海岸をボンヤリ歩いていたところを、おまわり

さんに補導されて。ひとまず、うちで預かることになったんです。海を見おろす

丘がお気に入りで、よくそこに居たものでした。夜には一人でのこのこと出かけ

て、鉄橋のところに立ってたり。             

 手がかかると言えばかかる。かからないと言えばかからないという変な子でし

たね。

 ところが、ある日ふいっと居なくなってしまったんです。警察の人や青年団ま

で繰り出して、八方探したんですが、誰も見た人が居ないっていうんです。それ

も不思議な話ですよねえ。

 食の細い子で、やせっぽちだったから……。今でも、どこかで元気にしてくれ

てるといいんですが」

 比留間さんは、その日仕事をすっぽかして、お酒を飲みました。それこそ、あ

びるほど飲んで、前後不覚になるほど酔いました。挙句の果てに、傍にいる人に

片っ端から殴りかかるのです。

「(酔って)どうだ。痛いか。痛くないだろ。おれは、これっぽちしか殴ってな

いんだ。これだけで、これだけで人生を棒に振れるか!えっ?これだけだぞ!こ

れだけ!あいつはおれをバカにするんだ。殴ったってかまうか!あんなケンカは、

そこいら中にころがってるんだ。おれをそんな目で見るな。」

 気がつくと、店の中には比留間さんが一人いるだけです。ふらふらになりなが

ら、足は海辺へと向かいます。そこはアザミがお気に入りだったという、海を見

おろす丘。

(海の彼方から、アザミの声が聞こえる)

「比留間さん、私、ひまわりの種、植えたんだよ。ねえ、ひまわりが咲くまでこ

こにいようよ」

 

(比留間が振り返ると、そこには一面ひまわりが咲き乱れている。途方にくれる

比留間。汽車がゆっくりと走りすぎると、辺りは闇に包まれ、ゆっくりと夜が更

けて行く)

 

(ーー礼)