レ・ミゼラブル

さい ふうめい

 プロローグ

 初老の警察官がゆっくりと歩いてくる。

 ジャベルである。

ジャベル (目を細め)随分長い道のりを、歩いてきたような気がします。私は後1週間で定年を迎えます。これまで、大きな手柄を立てることなく、今日になりました。しかし、私は私の人生に満足しています。後悔はありません。平凡な男の話などみなさんの興味をあまり引かないかも知れません。ですが、私がここでお話ししたいのは、私のことではなく、命の恩人のことなんです。私の恩人は19年も刑務所に入っていた囚人です。警察官の恩人が、囚人だなんて、おかしな話だと思う人がいるでしょう。私の恩人は、ブリー地方の貧しい農家に生まれ、子供の時には文字も教えられなかったそうです。25歳の時に家族のためにパン1個を盗み、懲役5年の刑に処せられました。その後、脱獄未遂を繰り返し、結局19年も監獄に入れられたのです。愚かさ故のことでした。ところが私はこの男に、生きる上で大事なことを教えて貰い、充実した人生を手に入れることができました。私には天使のような人です。私はこの恩人とツーロンの刑務所で知り合いました。彼は囚人、私は看守でした。ああ、そうだ。私はまだ自分の恩人の名前を言っていなかったようです。その名は、ジャン・バルジャン。

第1幕

第1場

 刑務所内の石切作業場

 ジャン・バルジャン、ブルベー、シュニルディー、コシュバイユ、ジョンドレット、マブーフらが重い石を運ばされている。

 看守はジャベルほか、看守1、2、3。

看守1 こら貴様、もたもたするんじゃない。さっさと歩け。

ブルベー 勘弁してくださいよ。もう足が動かない。

看守2 何を言い訳している。

看守3 貴様ら法律を犯して、刑に服しているんだろう。

看守1 こうやって反省しなくちゃ、真人間に戻れないんだ。(警棒で打つ)

 マブーフ (倒れる)……。

シュニルディー どうした。

コシュバイユ (駆け寄って)しっかりしろ。

ジョンドレット 誰か助けてくれ、倒れた奴がいるんだ。

ブルベー ……水、水をくれ……。

 看守1、2、3、駆け寄ってくる。

看守1 これはひどい。

シュニルディー こいつは心臓が弱かったんです。

コシュバイユ 医者を、医者を呼んでください。

ジョンドレット そうしないとこいつ心臓麻痺で、くたばっちまいますよ。

看守2 よしわかった。医者につれていこう。

看守3 誰か担架を持ってこい。

 ジャベルがゆうゆうと近づいてくる。

ジャベル どうしたんだ。

看守1 心臓発作です。

看守2 もともと心臓が弱かったらしいんですが、ここ数日は休憩を与えなかったものですから、弱ったみたいです。

看守3 早く担架を持ってこい。

ジャベル こいつは公爵夫人の日傘を盗んで売ろうとした男だ。それに2度も脱走を企てた。だから2カ月間昼飯以外の休憩を与えなかった。それで病気になるのはこいつが悪いんだ。担架はいらん。放っておけ。

シュニルディー 今、こいつは死にそうなんですよ。

ジャベル こいつがくたばろうがくたばるまいが、規則は規則だ。さあ、持ち場に着け。

看守1 所長。いくらなんでも。

ジャベル 貴様上司に逆らうのか。部下は上司の命令に従うものだ。

 そこにジャン・バルジャンが担架をもって現れる。

ジャベル ジャン・バルジャン、俺はさっき貴様には持ち場を動くなと念を押したはずだ。

ジャン でも、私のそばに担架があったものですから。

ジャベル もう、担架は要らない。

ジャン 医者に見せなければそいつは死んでしまいます。

ジャベル 規則は規則だ。死のうと死ぬまいと、そこはこいつの自由だ。持ち場に帰れ、ジャン・バルジャン。そうしないと、お前も2ヵ月休憩抜きだ。

ブルベー (暴れ苦しむ)

シュニルディー だめだ、こいつ本当にくたばってしまう。

 ジャン・バルジャン、近づいて、囚人1を心臓マッサージする。

 ブルベー、落ち着いてくる。

看守2 ああ、息を吹き返してきたぞ。

ジョンドレット 本当だ。脈も戻ってきた。

ジャベル お前は医者か。

ジャン 違います。昔中国人に教えてもらった、緊急用の気付けの按摩をやってやったのです。応急処置だけです。

ジャベル 余計なことを。

ジャン 人の命がかかっているんです。

ジャベル 持ち場を離れた罪で、今日から2ヵ月間休憩抜きだ。また私の命令に逆らい勝手なことをした罪で、1ヵ月、朝食を抜く。

コシュバイユ ……そんな。こいつは人に命を助けたんだぜ。あんまりだよ。

ジャベル さあ、作業を再開しろ。

                               暗転

 第2場

 テナルディエの旅館

 食堂で客が4人、トランプをやりながら酒を飲んでいる。

 アルベール(52)、レオナン(27)、ムトン(32)、ラシュル(ムトンの妻・24)。

 

ラシュル じゃあ、アナベールさん。あなたは、最初の奥さんのもお金を持ち逃げされて、二番目の奥さんにも同じことをされたっての? 

アナベール 悪かったよ。最初の女に財布を空っぽにされて、やっと金を貯めたって時に、また別の女に

ムトン 同じ手を使われたわけだ。

レオナン まったく、あなたほど運の悪い人も珍しいよ。

ラシュル ポーカーをやっては、もう14回も続けて負け続けているし。

アルベール おおっ、今度はいい手が来た。やっと勝てそうだ。

レオナン 私はブタだ……。おり。

ムトン 残念ながら今度も頂きだね。キングのスリーカード。

アナベール そうは問屋が卸すかい。(カードを開く)

レオナン おっ、エースのスリーカード。

アナベール 15回も続けて負けるわけにはいかないからな。それほどのどじじゃないぜ。

ラシュル ……ごめんなさい。(カードを開く)

レオナン フルハウスだ。

アナベール どうせおれは世界で一番運が悪い男だよ。

ムトン いや、アナベールさん。世界で一番運が悪いのはあなたじゃないよ。ジャン・バルジャンて男だよ。おれの兄貴が務所に入っているときに知り合ったらしいが、こいつはパンを1個盗んだだけで19年間も刑務所に入れられたんだ。

レオナン パン1個で19年!

ラシュル 信じられない。

ムトン ジャン・バルジャンて男は早くに両親を亡くして、貧しく育った上に、大人になってからは7人の子供を抱える姉さんに生活を支えたんだ。

アルベール 姉さんの生活は旦那が支えればいいじゃないか。

ムトン 旦那も死んじまったんだ。

ラシュル 兄弟そろって運が悪いのね。

ムトン ジャン・バルジャンは果樹園で小作人をやるだけだから、稼ぎは少ない。

レオナン 小作人の稼ぎじゃ7人の子供は育てられないな。

アルベール そんな兄弟、おっぽってしまえばいいんだ。

ムトン ところが情の深い男だったんだ。

ラシュル 情に深い男って、そうやって災難に巻き込まれちゃうのよ。

ムトン ある日ジャンの一家には一切れのパンもなくなったそうだ。

アルベール パン屋の前を通ったときに、つい出来心でパンを盗んだってわけか。

ムトン ジャン・ バルジャンは密漁もやっていたから、これが裁判には不利になって、懲役5年になってしまったんだ。

ラシュル パン1個で5年。ーー

アルベール ちょっと待てよ、さっきは確か19年ていったはずだぜ。

ムトン 脱獄未遂だ。最初の年にたった2日間抜け出して、刑期が3年伸びた。そこでも情の深さが仇になったんだ。仲間に誘われて断れなかったんだ。次にまた逃げ出す機会があって脱獄を試みたが、失敗してさらに5年伸びた。そのうち2年は鎖につながれた生活だったそうだ。

ラシュル 脱獄に失敗しているうちに刑期が延びてしまったの!

ムトン ご名答。さらに2回失敗して、都合19年。最後に入る頃には、情が深いどころか、何も感じない、まったく人を信じない男になってたそうだ。

アルベール そりゃそうなるぜ。

レオナン アルベールさんより運の悪い人がいたって訳だ。

アルベール じゃあ、自分の運に期待して、もう一勝負だ。16回目は本気でいくぜ。

ラシュル よした方がいいと思うけど。

レオナン もう一勝負だけつき合うか。

                        食堂にシーン暗くなる

 旅館に向かって歩いてくる男がいる。ぼろぼろの服。つぎの当たっているはいのう。くたくたに疲れているらしく足どりは重い。ジャン・バルジャンである。

ジャン ごめんください。今晩一晩泊めて頂きたいのですが。

テナルディエ (出てきて)いらしゃいませ。

ジャン 食事はすぐに出来ますか。

テナルディエ ただいま。

 ジャンは席に座る。

 テナルディエはじっとしている。

ジャン 腹ぺこなんです。

テナルディエ ちょっと待って下さい。

 表から宿の娘、エポニーヌ(8)、アゼルマ(6)が入ってくる。

エポニーヌ ただいま。(手紙をテナルディエに渡す)

テナルディエ 市役所で貰ったのはこれなんだな。

アゼルマ うんそうだよ。(奥に入る)

テナルディエ (手紙を読みジャンに近づく)あなたを泊める事はできません。

ジャン 何故ですか! 私はちゃんとお金は払います。

テナルディエ お金の事ではないんです。うちに部屋が空いていないんです。

ジャン 私は疲れている。休みたいだけなんです。うまやでもいいんです。

テナルディエ うまやもダメです。馬が入っていますから。

ジャン 宿の話は後回しにしよう。とにかく食事をしたい。

テナルディエ 食事もないんです。

ジャン そんな、あそこに鍋が煮立っているじゃないですか。

 ジャン、鍋の蓋を空ける。

テナルディエ それは予約が入っているんです。

ジャン 何人ですか。

テナルディエ 一二人です。

ジャン 二〇人分は優にあります。

テナルディエ とりに来る人がいるんです。

ジャン 一人分ぐらいいいじゃないか。私はもう動けないほど腹が減っている。

テナルディエ (低い声で)出ていって下さい。

ジャン なんてこというんだ。私は客だぞ。

テナルディエ 客? お前さんが客なものか。お前はジャン・バルジャンだ。懲役一九年の囚人を泊める宿はフランス中探してもないぞ。

ジャン なぜ、そんな事を知っているんだ。

テナルディエ お前がこの街に入ってくるのを昼間見つけたのさ。前科者じゃないかとピンと来て、娘に市役所までいって調べて貰った。(紙を見せる)この街でいちばん汚いのが残念だがうちの店だ。囚人はどこの宿も断られて、必ずうちに来る。お前の通行証は黄色のはずだ。囚人はみんな黄色の通行証を持っている。どうだ、図星だろう。(紙を読む)ジャン・バルジャンーー刑務所に19年いた者である。窃盗のため5カ年、4回脱獄を企てたため14カ年。きわめて危険な人物である。ーー今すぐ出ていって貰おう。

ジャン お察しの通り、私は全ての宿屋から断られました。わたしはどこへ行けばいいんでしょうか。

テナルディエ (銃を手に取る)早く出ていってくれ。私は手荒な真似はしたくない。

ジャン せめて今晩だけでも。私はへとへとで動けないんです。

テナルディエ もう一度お廻りに捕まったらどうだ。刑務所にいれて貰えば、寝るところも食う物も保証して貰える。ーーさあ、他の客の迷惑だ。

ジャン ……。

テナルディエ ぶっぱなすぞ。

ジャン わかりました。(宿を出る)

 数歩歩き、よろよろとしゃがみ込むジャン。

 空を見上げ、ため息をつく。横になる。

 外場は暗くなる。

 フォンテーヌ(31)とコゼット(8)が旅館に入ってくる。

フォンテーヌ ごめん下さい。今晩一晩泊めて頂きたいのですが。

 テナルディエ夫人出てくる。

テナルディエ夫人 どなたですか?

フォンテーヌ 子供と二人なんですが、部屋は空いてないでしょうか?

テナルディエ夫人 あいてますよ。

フォンテーヌ 良かった。(コゼットに)もう歩かなくていいんだよ。

コゼット うん。

 エポニーヌとアゼルマが奥の部屋から出てくる。エポニーヌは手に人形(カルメン)を持っている。

アゼルマ エポニーヌ、私にもカルメン貸してよ。

エポニーヌ 駄目、アゼルマは綺麗に髪をとかしてあげられないんだから。

アゼルマ できるったら。

エポニーヌ じゃあ、教えてあげるからちゃんと見てるのよ。

 エポニーヌは人形の髪をとかし始める。

 コゼットは近づいてきてそばでみている。

フォンテーヌ (テナルディエ夫人に)可愛いお子さんたちですね。

テナルディエ夫人 3人でお遊びよ。

エポニーヌ (コゼットに)やってみる?

コゼット うん。(人形を手に取り髪をとかし始める)

テナルディエ夫人 人形好きかい?

コゼット うん。

エポニーヌ 恥ずかしい話ですが、この子は早くに父親をなくしまして、私の働きだけで育てたものですから、人形一つ買ってやることができまでんでした。

テナルディエ夫人 お子さんの名前はなんというんですか?

エポニーヌ コゼットといいます。

テナルディエ夫人 おいくつですか?

フォンテーヌ もうすぐ9つになります。

テナルディエ夫人 じゃあ、エポニーヌーーうちの上の子ですけどねーーあのこと同い年だわ。

アゼルマ 私にもやらせて。

コゼット (アゼルマに人形を渡して)いい、こうやるのよ。

アゼルマ (コゼットにいわれた通りにやる)

コゼット じょうず。上手いじゃない。

テナルディエ夫人 子供ってほんとうにすぐに仲良くなるものね。まるで3人姉妹みたい。

フォンテーヌ あの……うちの子、預かって貰えないでしょうか?

テナルディエ夫人 えっ?

フォンテーヌ 私はこれから、国に帰るところですが、あの子を連れて行けば仕事ができません。私が子の旅館に泊まろうと思ったのは、きっと神様のお引き合わせです。私はあのお子さんたちがあんなに可愛くて、楽しそうなところを見て感心してしまいました。きっといいお母さんに育てられているにちがいない。そう思います。あの様子ではきっといい3人兄弟になるでしょう。私もお金をためて時期に戻ってまいります。どうかそれまで預かって貰えないでしょうか。

テナルディエ夫人 そういわれても、私一人では決められません。

フォンテーヌ 月に6フランずつ送ります。

 部屋の奥から、テナルディエの声がする。

テナルディエ 7フランだな。(出てくる)7フランより少なくちゃ駄目だ。

フォンテーヌ 7フラン……(ため息をつく)。

テナルディエ それも6カ月分前払いでなくては困る。

テナルディエ夫人 7フランが6カ月で、42フラン。

フォンテーヌ 何とかなります。

テナルディエ それいがいに支度金が15フラン。

テナルディエ夫人 42と15で、57フラン。

フォンテーヌ お支払いしますとも。ここに80フランあります。57フランお支払いしても、歩いて行けば国に帰るだけは残ります。国に帰れば働く事ができますから。

テナルディエ その子は服は持っているかい?

フォンテーヌ あります。この鞄の中に沢山はいっています。

テナルディエ それはおいていってくださいよ。

フォンテーヌ もちろんおいていきます。

テナルディエ夫人 お疲れでしょうから、もう、奥の部屋で休んで貰いましょうよ。

テナルディエ そうだな。

テナルディエ夫人 さあさ、こちらですよ。(フォンテーヌとコゼットを奥の部屋に連れていく)

テナルディエ 助かった。地獄で仏とはこのことだ。

テナルディエ夫人 (出てきて)これで明日が期限になっている、110フランの手形が払えるわ。

テナルディエ 50フランだけどうしても足らなかった。もう少しで役人がきて、この家を差し押さえに来るところだったが、救われた。お前の話の持っていきかたが、最高だったからだ。

テナルディエ夫人 別にそんなつもりもなかったんだがね。

二人は奥の部屋に入っていく。

部屋場は暗くなる。

 R侯爵夫人が出てくる。ジャンを見て怪訝に思う。

R侯爵夫人 あなた、そこで何をしているのですか。

ジャン ご覧の通り寝ているんです。

R侯爵夫人 こんな固い石の上でですか。

ジャン 私は19年間木の寝床で寝てきました。今日から石に格下げのようです。

R侯爵夫人 なぜ、宿へ泊まらないのです。

ジャン 金がないんでね。

R侯爵夫人 困りましたね。私は今、40スーしか持ち合わせがないんです。

ジャン (手を出して)下さい。

R侯爵夫人 (銀貨を出す)

ジャン (ひったくるようにして、とる)

R侯爵夫人 でもそれっぱかりでは、宿には泊まれません。情けをかけて泊めてくれる人はいないのですか?

ジャン 全ての宿に聞いてみたんです。

R侯爵夫人 どうでした?

ジャン 追い出されました。そこの宿では、銃を向けられました。

R侯爵夫人 まあ。ーーそうだわ。あの家に入ってみました?

ジャン 教会じゃないですか。

R侯爵夫人 いってご覧なさい。きっと、力になって下さいますよ。

ジャン どうせ、ダメに決まっています。

R侯爵夫人 ダメでもともとだから、行くだけいってみればいいじゃないですか。

                                 暗転

 

レ・ミゼラブル (幕前十二ページ)

 

 第4場

 警察署長室。

 警察所長の前にジャベルが立っている。

ジャベル 所長、遅くなりました。

所長 ジャベル警視、君は私の自慢の部下だった。

ジャベル 申し訳ありませんでした。

所長 無期懲役になりそうな大物を、わざわざ逃がしてやったそうだな。

ジャベル はい。

所長 なぜ、そんな事をした。

ジャベル 私にもわからないのです。今まで私の職務以外のことは全てつまらない、退屈なものでした。私はこれまで一心に、法を犯したものを、捕まえ罰してきました。

所長 我々はそのためにいるんだ。君は誰よりも優秀な警察官だった。

ジャベル ところが、今日私は法律に背いたものを放免したのです。私はその時、当然の事をしたような気がしました。

所長 当然の事ーー。

ジャベル 私は、ジャン・バルジャンを放免して、その時喜びを感じました。

所長 君は何を血迷っているんだ。

ジャベル ジャン・バルジャンはわたしがツーロンの監獄で看守をしていたときの囚人です。私は今、囚人を心から尊敬しています。彼の寛大さに私は震えおののいています。私は、慈善を施す悪人、哀れみの心が強く、やさしく、人を救い、寛大で、敵を滅ぼすよりも、自分を滅ぼそうとするほど高い徳を持った、天使のような囚人、そういう怪物を認めない訳には行きません。

所長 大層な入れ込みようだな。

ジャベル 私には確かだと思えるものが、無くなりました。法律さえも今の私には切れ切れのものに過ぎないのです。私はこれまで正直な法律のしもべでした。自分でも信じられないのです。私が、一人の男を放免する罪と、それを捕らえる罪の、二つの板挟みになるということが、有り得るのかーー。

所長 君は疲れているんだ。今まで働きすぎた。少し休んだらどうだ。

ジャベル 指示に従います。私は今自分でもどうしたらいいのかわかりません。

                                 暗転

第5場

ジルノルマン邸。

ジルノルマン、マリユス、コゼット、ジャン・バルジャン、がいる。

コゼット マリユス、本当にもうどこも悪くないのね。

マリユス ああ。(歩いてみせる)

コゼット 良かった。

マリユス コゼット、今日は君に是非伝えたい事があるんだ。

コゼット なあに?

マリユス (ジルノルマンに)本当に私はコゼットと結婚しても良いんですね。

ジルノルマン もちろんだとも。

コゼット でも、お父さまは、「マリユスの妻は男爵以上の家柄の出身でないと、駄目だ」と仰ってたとーー。

ジルノルマン この立派な娘さんは、私には貴婦人に見える。男爵夫人には惜しい。生まれながらの公爵夫人だ。まつげも立派だ。おまえたちは、お互いに愛し合うんだ。お互いに慕い合うがいい。

マリユス お父さん、どうもありがとう。

ジルノルマン コゼット。どうもありがとう。あなたの熱心な看病のおかげで、この親不孝ものが息を吹き返した。私はあなたがマリユスを、どんなに愛しているか、十分に知っている。マリユスもコゼットになら終生変わらない愛を貫けることだろう。

コゼット うれしい。

ジルノルマン 若い二人の旅立ちに、実は悲しいことを話さなければならないんだ。わしの財産は、半分以上が終身年金に入っている。わしが生きている間はいいが、死んだら、もう20年以上もしたらだが、おまえたちは一文無しになるだろう。男爵夫人この真っ白な美しい手も食うために働かなくてはならないだろう。

ジャン 心配には及びません、ジルノルマン男爵。コゼットは60万フランの金を持っています。(包みを渡す)

 包みを開ける。

ジルノルマン マリユス、お前、大金持ちに娘と恋をしていたんだな。

マリユス 私はコゼットという素晴らしい女性に恋をしたのであって、大金を好きになったわけではありません。

ジルノルマン いってみただけだ。

マリユス 結婚も決まったことだし、お父さん。コゼットとの結婚に是非呼びたい人がいます。

ジルノルマン 命の恩人だろう。銃で撃たれて瀕死のお前をここまで運んでくれた人だな。

マリユス そうです。その人は命がけで私を助けてくれたのですから。私の出発を祝う場にいて欲しいのです。

コゼット その方は、なぜ名乗り出てくれないのでしょうか。

マリユス 私を馬車で運んでくれたぎょ者も、警官に金を貰って運んだだけで、その警官の名もも知らなかったらしいんだ。

ジャン 私はこれで失礼します。

ジルノルマン どうしてですか? 若い二人の門出を一緒に祝おうではありませんか。

ジャン 実は用事を思い出しました。

ジルノルマン 後では駄目なのですか?

ジャン ええ、急ぐのです。

ジルノルマン しかし、せっかくの佳き日に。

マリユス お父さん。無理にお引き留めするのはよくありません。

ジャン では、私は馬車を待たせているので。

 ジャン・バルジャン、退場。

 そこに女中が入ってくる。

女中 (ジルノルマンに手紙を渡し)この手紙の主が玄関に来ております。

ジルノルマン (手紙を読む)男爵閣下。私は閣下に関係のある、ある人物の秘密を握っております。その人物は閣下に大きな災いをもたらします。もし、ご希望なら、その秘密をお伝えいたします。テナル。……テナル。何者だろう。

マリユス この目出たい日に無礼な手紙をよこす男だ。呼んで叱りつけてやりましょう。(女中に)連れてきてくれ。

女中 はい。

 女中、ドアを開けると、テナルディエはドアのところまで来ていた。

女中 あの、ここにいらっしゃします。

ジルノルマン おはいり下さい。

マリユス なんのようです?

テナルディエ (ジルノルマンに)閣下には方々でお目にかかる光栄を得ましたように覚えております。

ジルノルマン 私とあなたは初対面だ。あったふりをするのはやめて下さい。

マリユス まず、用件をいって下さい。用件によってはお引きとりを願います

テナルディエ よろしゅうございます。私には2つ、買っていただきたい秘密があります。

ジルノルマン 秘密?

テナルディエ 閣下、あなたはお屋敷に盗人と人殺しをお入れになっておられます。

ジルノルマン 私の家に?そんなはずはない。

テナルディエ 閣下、私が申し上げるのは時効になったようなひからびた犯罪ではございません。最近の、残念ながら法廷に知られていない行為のことです。

ジルノルマン 聞きましょう。

テナルディエ その男はそこにいるジャン・バルジャンです。

マリユス 何を言い出すかと思えば。

テナルディエ その男はもとはと言えば囚人でした。

マリユス そんなことはここにいる人は先刻ご承知だ。

テナルディエ これで、私の握っている秘密がでたらめなものではないことをわかって頂けたかと思います。これから申し上げることは私一人しか承知していないことなのです。非常な秘密ですから、金に換えたいと思っております。閣下にお買いあげいただきたいのです。お安くしておきましょう、2万フランでは?

マリユス その秘密も私が知っていることだと思うが。

テナルディエ 1万フランでいかがでしょう。

マリユス 繰り返していうが、君は私に教えることは何もないはずだ。

テナルディエ そうおっしゃっても、私は今日の食事代を得なければなりません。閣下、お話しします。20フランめぐんで下さい。

マリユス 20フラン! 2万フランがわずか1分で1000分の1に値下げされてしまった。

テナルディエ 1822年頃のことですか、マドレーヌという男がある町で成功して、工業で市全体を繁栄させたんです。自分の財産もできたが、その市に病院を建て、学校をつくり、病人を見舞い、孤児を育ててやった。その町の守り神のような人だった。ところがその市長には監獄に入っていたという過去があり、名前を偽っていたり、出獄したあとに罪を犯していたこともあって、監獄に逆戻りになったんです。そのマドレーヌをいう市長は60万フランを、ラフィット銀行に貯金していました。そこにいるジャン・バルジャンは、マドレーヌになりすまして、その大金を降ろしてしまったのです。これはラフィット銀行の行員から聞いたことだから確かです。

ジルノルマン 60万フラン! (金の包みを見る)この大金は……?

マリユス なぜ、こんな大金が……。(テナルディエに)面白い冗談だ。暇をつぶすには面白すぎる冗談だ。20フランと言わずに、100フラン上げようじゃないか。(紙幣を出す)さっきあなたは2つの秘密を握っているといった。もう一つの方も話して貰おう。

コゼット マリユス、あなたは私のお父さんを、信じていないの?

マリユス 信じているさ。君のお父さんに、たとえどんな過去があっても、私の心は変わらない。

コゼット じゃあ、こんな人にお金を渡すことないじゃない。

マリユス 君のお父さんは、自分では語ろうとしない方だ。人がどんなに非望中傷しようと、決して弁解しないだろう。きっと、この男はこのまま追い返しても、どこかでしゃべるだろう。私たちは事情を知っておいた方がいい。(テナルディエに)さあ、この人の秘密をしゃべってくれ。

テナルディエ 6月6日、暴動があった日のことを覚えていらっしゃいますね。あの日、パリの大下水道の中、アンバリード橋とイエナ橋の間の出口のところに私はいました。政治とは別の理由でね。そこに住んでいたんです。私は下水道に入る鍵を持っていました。私が入ろうとすると、中にはそこにいるジャン・バルジャンがいたのです。ジャン・バルジャンの傍らには死体がありました。ジャン・バルジャンは殺人の現行犯だったのです。

マリユス まさか。

テナルディエ 閣下。下水道は広場ではありません。狭い場所で顔を合わせれば、いやでもお互いの顔を見ないわけにはいきません。私は確かにジャン・バルジャンを見ました。やつはこう言ったのです。「お前にはそこに横たわっているものはなんだかわかるだろう。俺はここを出なくちゃならねえ。お前は鍵を持っているようだから、それを俺に貸してくれ」と。

コゼット 嘘よ、おとうさまは殺人犯なんかじゃないわ。

ジルノルマン それが本当なら、警察に届けなければならん。もちろん、お前たちの婚約もなかったことにしなければならない。

マリユス コゼットは関係ありません。

ジルノルマン うちは代々男爵の家柄だ。殺人犯の娘はもらえん。

マリユス なんと言うことを。

ジルノルマン その男のいうことが真実ならば、と言っておる。ちゃんと事実を調べてからだ。

 外から、ジャベルの声がする。

ジャベル (声だけ)調べるには及びません。

 ジャベル出てくる。

 後から、女中が追いかけてくる。

女中 すみません、旦那様。警察の方なんで、お入れしないわけにはいきませんでした。

マリユス 貴様、生きていたのか。なぜだ、なぜ生きている。

ジャベル その理由はやがてわかることでしょう。

ジルノルマン 警察の方が、どういうご用件ですか?

ジャベル 私は今日、そこにいるマリユスさんの、遺失物を届けにまいりました。ところが玄関先で、空き巣常習犯のテナルディエがこの家にはいるのを見かけたのです。何かよくないことが起こる。警察官のそういう勘は良く当たるものです。失礼を承知で、一部始終を聞かせて貰いました。

ジルノルマン 申し訳ないが取り込み中だ。警察に用があるときは、こちらから出かける。

ジャベル 私は引き下がることはできません。

ジルノルマン いくら警察でも、横暴ではないかね。

ジャベル いま私は警察官としてここにいるのではありません。警察官としてなら、ここに来る理由はありません。

マリユス じゃあ、なぜいるんです?

ジャベル 私の良心に基づいて、ここにいるからです。私は貴族でもないジャン・バルジャン氏が、何故60万フランもの大金を持っているのか、みなさんに説明しなければなりません。いまの私の仕事は、ジャン・バルジャン氏の誤解を一刻も早く解くことだと考えるからです。

ジルノルマン 聞こう。

ジャベル 先ほどこの男が言った、モントルイユ・スール・メール市の市長、マドレーヌは実はジャン・バルジャンその人なのです。(新聞紙に切れ端をジルノルマンに渡す)ジャン・バルジャン氏が、マドレーヌ市長になった経緯は、その新聞記事を見れば明らかです。私はマドレーヌ氏が市長をやっている頃、モントルイユ・スール・メール市で警察官をしておりました。マドレーヌ氏の過去を暴き、監獄に追いやったのは、他でもない私だと言っても過言ではありません。

ジルノルマン では、ジャン・バルジャン氏は自分の金を降ろしただけという事になる。

マリユス 泥棒でも何でもないではないか。

テナルディエ でも、奴が殺人犯であることは否定できないでしょう。

ジャベル 私がここに来たのは、そのことのためです。私はそこにいるマリユスさんの遺失物を届けに来たのです。

コゼット マリユスの遺失物と、父の殺人の疑いがどうつながるんでしょう。

ジャベル まず、持ち主にこれをお返ししましょう。(手帳をマリユスに渡す)

マリユス この手帳はまちがいなく私のものだ。あの日、砦の中で無くしてしまったはずだ。

ジャベル 実はそれは砦の中に落ちていたものではないのです。

マリユス いったいどこに。

ジャベル 下水道の出口です。先ほどその男がいったアンバリード橋とイエナ橋の間の出口です。

マリユス なぜそんなところに落ちていたんだろう。

ジャベル その日、私は空き巣を追っているうちに、下水道の口まで行き着いたのです。私が追っていた空き巣はそこにいるテナルディエです。私はそこで、命の恩人に会いました。共和派にスパイとして捕まり、処刑されるところを、マリユス ジャン・バルジャン氏は処刑せずに、放免したのか?

ジャベル 私は許されたのです。

マリユス 何ということ。

ジャベル 自分の命より人の命の尊さを重んじる人がこの世にいるのです。

コゼット でも、下水道だなんて、おとうさまは、どうしてそんな場所にいたのでしょうか。

ジャベル 私はジャン・バルジャン氏の傍らに死体が横たわっているのを見ました。

テナルディエ そうだろう。

ジャベル しかし、それは死体ではありませんでした。怪我をして深手を負っていましたが、まだ息があったのです。私はジャン・バルジャン氏の指示通り、そのけが人を、ぎょ者を頼んで、フィーユ・デュ・カルベール街6番地に送り届けたのです。

ジルノルマン フィーユ・デュ・カルベール街6番地。この家じゃないか。

ジャベル そうです。

ジルノルマン ということは、マリユスの命を救ったのはジャン・バルジャン氏。

ジャベル そう。私はそのことを告げにここに来たのです。

マリユス コゼット、僕はあなたのお父さんに命を助けて貰ったんだ。

ジルノルマン (テナルディエに)この恥知らず。

ジャベル テナルディエ。私はお前が20回も監獄行きになる材料を、持っているぞ。

マリユス テナルディエ、卑劣きわまる悪党め。人の秘密を売り歩いて、暗闇の中を歩き回る惨めな奴め!

ジルノルマン その100フランはくれてやるから、さっさと出て行け。

テナルディエ 男爵閣下、おありがとうございます。ご恩は長く忘れません。

 テナルディエ、去る。

ジルノルマン あの男はもう地獄に落ちるほかあるまい。

マリユス コゼット! 早くおいで。すぐに君の家に行くんだ。(女中に)辻馬車を呼んでくれ。(コゼットに)命の恩人に一刻も早く礼を言わなければ。さあ、急いでショールをして。

コゼット はい。

マリユス 君のお父さんだ。もうすっかり飲み込めたんだ。君は僕がガブローシュの持たせてやった手紙を受け取らなかったといったね。きっと君のお父さんの手に渡ったに違いない。そこで僕を救いに砦にやってきて下さったのだ。

ジャベル 救われたのはあなたばかりではなかった。私もだ。

マリユス そして私をかついで、あの暗い下水道を通られた。私はなんと恩知らずだったのだろう。私は一生涯ジャン・バルジャン氏を敬うことだろう。ガブローシュの手紙はあの人に渡ったのだ。それですっきりわかる。

コゼット ええ、私もおっしゃるとおりだと思うわ。

 女中、慌ただしく入ってくる。

女中 旦那様、旦那様。

ジルノルマン どうしたんだ、慌てて。

女中 ジャン・バルジャンさまがおいでです。

 ジャン・バルジャン、銀の燭台を持って登場。

ジルノルマン ジャン・バルジャンさん、用事はもうお済みですか?

ジャン 用事というのはこれです。

ジルノルマン これは立派な燭台だ。

マリユス お父さん。ここにいらっしゃるジャベルさんが全てを教えて下さいました。

ジャベル さしでがましいことをしたかもしれませんが。

マリユス あなたは私の命を救って下さった。なんとお礼をもうしあげてよいやら。ひざまずかせかせてください。私のために命までもなげうって下さろうとした、天使のような方。何故教えて下さらなかったのです。

ジャン もし、あの下水道のことが知れたら、あなたは私を引き留めるに違いありません。

マリユス 引き留める? お父さまはどこかに行かれるのですか?

ジャン 明日はもうこの町にはいないでしょう。私はコゼットの幸せをのみ願って生きてきました。もうコゼットは大丈夫です。マリユス、あなたのような立派な方がついていて下さるのだから。

マリユス それで、お父さんが何故去らなくてはならないのです。

ジャン 聞かないで下さい。私が心深く決めていることですから。私はコゼットの幸せの妨げになりたくないだけなのだ。コゼット、あなたは素晴らしい伴侶を得た。私もいま、幸せに包まれている。この二つの燭台を、あなたにあげよう。これは銀だが、私には金でできていると言ってもいいし、ダイアモンドでできていると言ってもいい。私にこれを下さった人が私のことを天から満足な目で見て下さるかどうかはわからない。ただ、私は精いっぱいのことをした。二人とも私が貧しいものであることを、忘れないでくれ。

マリユス 貧しいだなんて。

ジャン (コゼットに)私はいまでもあなたとの最初の出会いのことを忘れない。

コゼット お父さまは水桶を持って下さった。

ジャン あなたの手はあかぎれで真っ赤だった。そして冷たかった。それから、大きな人形をあげたっけ。

コゼット 私は、人形にカトリーヌという名前をつけたわ。

ジャン テナルディエ一家のものはみんな悪人だった。けれど、それは許してやらなければいけない。それから、コゼット。あまたのお母さんの名前をいって聞かせるときが来た。お母さんの名はフォンテーヌだ。苦しんで生きた人だ。あなたが幸福なのと同じぐらい、不幸だった。だが、それも神が与えたものだ。世の中には愛し合うよりほかには殆ど何もない。コゼット、マリユス。あなたたちは祝福された人だ。

ジャベル ジャン・バルジャン。私はあなたに会えて本当に幸せだった。なんとお詫びをすればいいのか。どうお礼を言えばいいのか。

ジャン ジャベル警視、もういいんです。

ジャベル あなたがおっしゃるように、この人の世には愛よりほかに何もないことを知りました。

ジャン 貧しく生まれ育った私は、信頼する心、許す心を知りませんでした。しぁし、私は許されて愛を知りました。人は許されることで、愛を知るのです。

ジャベル だからあなたは私を許して下さったんですか。

ジャン それを教えてくれたのが、私に銀の燭台をくれたミリエル司教です。ミリエル司教はいまも、私を見守ってくれています。

 ジャン・バルジャンは、燭台を見る。

 ミリエル司教の声がする。「ジャン・バルジャン、この銀の食器は正直な人間になるために使うのですよ。私の兄弟、あなたはもう悪のものではない。善の世界に生きるのです」

                                 暗転

ジャベル 私の許す心、すなわち愛を教えてくれたのは、一人の囚人でした。ジャン・バルジャン。私はいまもこうして警官を続けています。警察官をやるよりほかに能のない男です。町の人には地図屋のジャベルと呼ばれています。泥棒一人捕まえることなく、道を教えるよりほかになにもしない男だと言う意味です。しかし、そういう呼ばれ方に、私は警察官として、いささか誇りを持っているのです。

 奥から声がする。

警官1 パン泥棒だ。

警官2 そいつを捕まえろ。

警官1 そっちだ。そっちへ逃げたぞ。

 少年がフランスパンを持って、息せき切って走ってくる。

 ジャベルにぶつかる。

少年 駄目だ、もう走れねえ。(その場に倒れる)

 そこにメリー(13)が駆け込んでくる。

メリー あっ、お巡りさん。この子を助けてあげて。この子は自分のために盗んだんじゃないの。家が貧しくて、弟や妹たちに食べさせるものがないの。

ジャベル 君は?

メリー この子の隣にすんでるの。(少年に)ねえ、マドレーヌ。もう絶対にしないって約束して。

ジャベル この子はマドレーヌという名前なのか。

メリー はい。

ジャベル (少年に)しばらくここに隠れていなさい。

 少年を茂みに隠す。

 そこに、警官1、2が駆け込んでくる。

警官1 こっちに子供が走ってきませんでしたか?

警官2 パンを一抱え持っているはずですが。

ジャベル パン泥棒ですか?

警官1 はい。

ジャベル こっちにはきませんよ。

警官2 そうですか。じゃあ、あっちを探してみよう。

警官1 すばしっこいガキだ。

 警官、走り去る。

ジャベル マドレーヌ、出ておいで。もう大丈夫だ。

 少年、出てくる。

ジャベル もう、盗みはやってはいけないよ。捕まったら、一生を棒に振る可能性があるんだから。

少年 うん。

ジャベル ここに2フランある。生活の足しにはならないが、明日パン屋に届けるといい。正直に生きるんだ。今は貧しいかも知れないが、夜明けの来ない夜はない。正直はいつか必ず報われる。くじけちゃ駄目だ。

少年 うん。(金を受け取る)ありがとう。

 少年、走り去る。

ジャベル ジャン・バルジャンやテナルディエがその後どうなったかって? それは私が言うより、みなさんの心の中で、物語は始まっているように思いますから、無粋なことを言うのはやめにします。結末は1年後か10年後か、はたまた30年後か。みなさんが自分でつくられるべきものなのかも知れません。今私にいえること。それは、私がジャン・バルジャンから、大きな贈り物を貰ったと言うことです。

 舞台、明るくなると、出演者全員が銀の燭台を持って、ジャン・バルジャンをとりかこんでいる。

                                 幕

 第5場

 道端の石にジャン・バルジャンが腰掛けている。

 じゃんは放心状態で何やらぶつぶつと呟いている。

 ジャンの近くにはコスモスがいくつか咲いている。

ジャン もう秋になっていたのか。こうやってコスモスを眺めるのは何年ぶりだろう。私は子供の頃、よくこうやって花を眺めたものだ。美しい物を美しいと感じる心をもっていた。19年も監獄に入っているうちに、私は人間の心を失っていた。善意を信じない人間になっていた。そんな私にミリエル司教は大きな、深い愛をかけて下さった。私を信じて下さった。

 これほどつらく苦しい事があるだろうか。いっそのこと憲兵につれられて、監獄に入れられた方が、苦しみは少なかったろう。私はこの世から消えて無くなりたい。

 そこに少年プチ・ジェルベェー(10)が唄を歌いながらやってくる。

 少年は手回しオルガンを脇に下げ、モルモットの箱をしょっている。

ジェルベェー おいらは旅回りの唄歌い

       旅から旅、街から街

       歌い歩いて人の心を慰める

 歌いながら投げ上げた40スー銀貨が、手からすべった。

 転がった銀貨は、たまたま足を地面にたたきつけたジャンの足の下に入ってしまった。

ジェルベェー おじさん、僕のお金返して。

ジャン なんだ、お前。 

ジェルベェー なんだ、お前って。僕の名前はプチ・ジェルベェー。おじさん、僕のお金返しておくれよ。

ジャン ……。

ジェルベェー 僕の銀貨を返しておくれよ。(ジャンの靴を動かそうとする)

ジャン なんだ。変な真似をするんじゃない。

ジェルベェー だって、足をどけてくれないじゃないか。

ジャン うるさいがきだ。俺はここで休んでいるんだ。

ジェルベェー じゃあ、僕の40スー銀貨を返しておくれよ。

ジャン 人聞きの悪い事をいうがきだ。俺は何もとっちゃいない。なんくせつけると、しばきあげるぞ。とっとと行きあがれ。

 泣き出して、駆けていくジェルベェー。

ジャン しょうのないがきだ。(ボタンをはめて立とうとする。杖を持ったときに、40スー銀貨に気づく)……なんだ、これは。(拾い上げる)……40スー銀貨じゃないか。あの子供がいっていたのはこのことだったのか。……ああ。(少年をを探し始める)プチ・ジェルベェー。プチ・ジェルベェー。(あちらこちらをさまよいながら、何度の何度も、その名を呼ぶ)プチ・ジェルベェー。プチ・ジェルベェー。

 叫ぶ声はだんだん弱々しくなって行く。

 やがて何をいっているかわからなくなってくる。

 がっくりと倒れ、両手で髪をつかみ、顔を膝に押し当てる。

ジャン 俺はなんて情けない男だ。(大声で泣き出す)司教、すいません。私はあなたに正直な人間になる約束をしました。ところがその舌の根も乾かぬうちに、こんなに小さな子供のお金を盗んでしまいました。歌歌いの子供です。40スー銀貨一つを稼ぐのに、あの子は道端や軒先で何曲の歌を歌った事でしょう。そんな血のにじむようなお金を、私は盗んでしまいました。(ひざまずいて祈る)