放浪日記2001

筆・さいふうめい


2001年12月26日(火)

まだ、名前は本決まりではないが、取りあえず「平石耕一・さいふうめい、ふたり会」と呼ぶことにする。
実質的な活動は来年からになる。
平石は同郷で一つ年上の作家である。「センポ・スギハアラ」の大ヒットがあるし、彼が書いた「ニューズ・ニューズ」(松本サリンの被害者がマスコミの報道によって、何となく(誰にも決定的な責任がないまま)容疑者に仕立て上げられていくドラマ)は、社会問題となり、熊井啓監督が映画にもした。彼は文学座、円、民芸、青年座、東京芸術座、銅鑼その他オペラなど、どこからも声の掛かる売れっ子劇作家である。相方が私では、実績が月とスッポンだが、期待料も込みで認めてくれているのだろう。ありがたいことである。
二人で「劇作の力」の復権を目指そうと目論んでいる。ギリシア悲劇以降の伝統的な作劇術を踏まえた「胸を打つ戯曲」で現代を描こうと考えている。今の演劇状況を考えると、追い風が吹いているとはいえない行動だが、私たちは必要なことだと思っている。
最初は、前進座OBの劇作家津上忠の門下会を作ろうという話だった。2003年には、津上忠、平石耕一、さいふうめいの三作一挙上演は実行する積もりである。「20世紀の戦争」三人三様の切り口で舞台に上げるのである。津上さんの提案である。20世紀は、戦争の世紀だった。20世紀を戦争で切り取ろう、と考えている。津上さんは、日露戦争。平石はアフガン戦争。私は、第二次世界大戦の特攻を扱うことにしている。テーマはハードだが、三人とも、多くの観客に向けた分りやすい芝居を書くという共通点がある。
しかし今はこの「二人会」をスタートさせる。演劇が「ごく少数のマニアのためのもの」から「多くの生活者のためのもの」に変わる流れを作る端緒にしたい。



2001年12月26日(火)

SOHOコンピューティングの取材で、「NTT−ME」に行く。インターネット回旋でテレビ電話が実用化されそうなのだ。

値段が、12万8000円と高いが、これがやがて家庭用ファックス並みの値段になったら、身障者、老人などに便利なものになるだろうと考えた。

詳細は来月発売の記事に書くが、用途はそれ以外に、風俗産業を席巻するかもしれない。多分、テレクラが形を変えてくる。

風俗で火が付けば、一気に実用品の値段になるだろう。そうなれば、身障者や老人にも手が届く。

極論だが、キーボードに馴染みにくい層が、一気にインターネット世界に近づく。ひょっとしたら、PSの形を経由せず、電話の形のまま、インターネット社会になるかもしれないという気もしてきた。

テレビ電話は失敗したが、これは台風の目になりそうだ。



2001年12月11日(火)

ヤングマガジンアッパーズに連載中の「バサラ」の台湾版が出ることになった。韓国版は既に決まっていて、「バサラ」は翻訳出版の反応が早い。まだ一巻しか出ていなくて、先も読めないのに、ありがたい。ただ、台湾に関しては思い当たる節がある。

台湾では、サンマーク出版の「阿佐田哲也勝負語録」「運の法則を読む」それに、産能大学出版部の「運をつかむ人のがす人」が翻訳されている。これに少年マガジンの「勝負師伝説・哲也」が加わる。著者名は、佐浮銘(さいふうめい)である。わたしが思うに、佐浮銘は、「運」あるいは「ギャンブル」に関して、台湾では、認知されつつあるのではないか。

私の運の理論の核になっているのは「道教」である。そのままでは、現代ではオカルトになるので、科学的に説明が付く部分を中心にしている。

そう考えてみると、中国生まれの「道教」が、私を通じて、日本生まれの「ギャンブル学」「運の理論」となって、逆輸出されているのである。



2001年11月27日(火)

サンマーク出版の佐藤さんが、「運の上げ下げで勝負が決まる」の見本本を持ってきてくれた。あと一週間もすれば、本屋に並ぶだろう。

4年ぶりの書き下ろしである。週刊誌(少年マガジン)と隔週刊誌(ヤングマガジンアッパーズ)に連載を抱えての書き下ろしは初めてだってので、スケジュール調整に苦しみ、なかなか脱稿できなかった本だ。

年末の「運」の本がたくさん並ぶ時期に出せて良かった。これまで、運に関する本は3冊書いているが、いずれも、年末ではない。時期がポイントかな、と思っていたので、なんとか間に合って良かった。

漫画のヒットがあるお陰で、これまでの運研究にかなり厚みが増した。帯には星野さんの哲也の絵が付いている。

今月一杯で完成予定の戯曲「フェニックスの落胤」がまだ、4分の1しかできていない。いくらエンジンをかけても、こぼれるな。

12月1日には、嵐田が噛んでいる麻雀大会のゲストにもなっているし、かなり日程がやばくなっている。



2001年11月14日(水)

劇団カクスコを観る。14年間続いた劇団のサヨナラ公演である。
カクスコは一時ブレイクしそうになったことがある。役者の呼吸が良くて、仲間同士で「空気」を大事にして舞台を作っているのが、客席に伝わる。ファンがたくさんいたのだろう。結局、作家的な人がいなかったのが痛かったのかもしれない。
俺のように、一度も火の点いたことがない人間とは違う。自分たちのやっていることに自信があるのだ。
カクスコには設立当時からの「仲間」がいた。俺はそれがいなかった。彼らには解散する「潮時」ができる。俺にはそれがない。だから、俺の場合は、売れなくても長く続いているともいえるのだが。
だが、彼らの舞台は胸に染みた。タイトルは「今日までどうもありがとう」。中村育二と井之上隆志の掛け合いは、絶妙だし。山崎直樹の「受け芝居」もいい。一人一人キャラクターが立っている。さわやかな立ちかたなんだな。
井之上は、久留米のジャズ・ギタリスト田中に顔がそっくりだな、と思っていたら、出身地が「日豊本線」の近くだといっていたので、多分、似た遺伝子をどこかで受け継いでいるのだろう。
立派な男たちだな、と心から思った。



2001年11月13日(火)

フジテレビの「御家人斬九郎」が面白かった。渡辺謙の斬九郎は、時代劇のニュー・ヒーローになっている。脚本はうまくできているし、嫉妬に狂ったぜ。原作の柴田錬三郎は、密かにマイ・ブームだっただけに、嬉しい。つい最近も、坪内寿夫をモデルにした「大将」が思わぬ収獲だった。剣豪ではないが、柴田錬三郎を意識した、軍師ものを漫画でと考えている。



2001年11月7日(水)

電車の中で前に座っている管理職風のおじさんが、社内メールを全部プリントしたと思しい、分厚い文書の束を読んでいた。そういう人がやっぱりいたか。俺はぞっとした。最初社内の使い込みでも調査しようとして、読み始めたのかもしれないが、やがて、癖になったのだろうな。自分の部屋で読むのではなく、電車の中で読んでいるんだもんな。社会は信用できないな。



2001年10月20日(土)

鹿児島・知覧の「特攻記念館」を見学。涙が止まらない。特攻、あれは何だったのか。250キロ爆弾では巡洋艦も沈まない。意味のない攻撃ではないか。この特攻精神、実は西南の役にその原形がある。九州には、台風もあるし、桜島、阿蘇などの活火山がある。人間は、自然という脅威を前にすると、力ない存在であることを肌で知っているからだともいえる。記念館で、解説をしてくれた方の話し振りに胸を打たれる。生命の重みと向き合って生きている人は、同じ観光客相手に話すのでも、人間が腐ったりしない。特攻という愚かな作戦が、こうして立派な人格を生む。知覧という街も随所に松の木が植えられており、端正で美しいところだった。命の尊さと出会いながら、生きられる素晴らしい街でもある。哲也では、いい話にしなくては、と思いを新たにする。



2001年10月19日(金)

阿蘇山を見に行く。阿蘇は、「ヤングマガジン・アッパーズ」に連載している「バサラ」の生まれ故郷だ。阿蘇の活火山を見ながら、連想したキャラクターである。バサラ連載に当たって、去年も見に来た。また、「こういう男を描きたい」という気持ちを新たにした。無骨で、グツグツ煮えたぎっており、普段は闘志を内に秘めているが、ことがあれば爆発し、手が付けられないという男。岩肌がざっくりと何層にも分かれている。ダイナミックで、化粧をした感じは微塵もない。これが「地球」なのだ、と思う。地球とは、本来こういうものだのだ、と。東京でコンクリートに囲まれて生きてしまうと、地球をなめてしまう。こういうものをたまに見ていないと、生き方を誤ってしまう。地球と共存しようなんて、とんでもない勘違いだ。人間は、地球にやっと生かして貰っているだけなのだ。やっと生かして貰っているのだから、精一杯生きなければならない。ただ、それだけだ。



2001年10月18日(木)

講談社の哲也班に合流し、九州取材を始める。メンバーは編集の吉田さん、都丸さん、熊谷さん。星野さん。俺にうちの金子、谷津。哲也を鹿児島に行かせたい、是非知覧に行かせたいという、俺のたっての願いで今回の取材になった。

手始めは熊本。熊本城を見学。虎退治で有名な加藤清正が築いた城だ。清正は城作りの名人。名古屋城を作ったのも清正だ。清正は、雄大で堅固な城を作る。熊本県人らしい人物だ。清正は城に立て篭もる家来をどうやって守るかに腐心している。

清正は、壁の中に米とスルメを埋め込んだ。城内にたくさんの井戸を掘った。生木でも良く燃える樹木を植えた。飢えをどうやって防ぐかを考えた。篭城戦を強いられるときは、守りの戦になる。まず、食べ物のことを考えた。秀吉の部下としては、武闘派だが、こんなの深く物事を考える人も少ない。というより、考える力のある人を重用したということだ。

西南の役で、西郷軍はこの城が落とせずに苦労した。西郷軍の、北進していくうちに援軍は膨れ上がるだろうと考えた作戦は確かに楽天的に過ぎるが、まんざら不可能なことともいえない。熊本城攻めに手間取ったのが痛かった。

西南の役で、果敢に戦ったのは、鹿児島の武士よりむしろ熊本の武士だったといわれる。鹿児島の武士は、利あらずと見るや、退散したらしい。一方、熊本の武士は、最後まで引かなかった。この辺りは、鹿児島、熊本の気質を良く表わしている。

熊本城を見ながら、複雑な心境になる。



2001年10月17日(水)

大分県・佐伯市。佐伯文化会館で俺が脚本を書いた「蓮如」を見る。観客は700。去年、九州大谷の学生のために書いたもの。今年は、大分・佐伯、鹿児島・垂水、知覧と三ヵ所を廻る。その初日だ。今年の学生も健闘してくれている。教え子たちと会って、久しぶりに先生の顔に戻る。

前学長の桑門先生。現学長の古田先生。名誉教授の宮城先生。久しぶりに仏教学科の篤学と出会えて嬉しかった。

夜は別府に泊まる。山の上の方の比較的静かな場所に宿をとる。別府の温泉は硫黄の匂いが強い。温泉らしい感じがする。九州大学の医学部が温泉の研究を始めたのは、別府からだった。硫黄の匂いからだろう。

湾の傍の観光地は、どこも閑古鳥が鳴いているという。地元の人も歩かないそうだ。テレビで派手に宣伝をして、拡大政策をとった温泉街は、ツワモノどもが夢の後。熱海と同じ状態だったのだ。



2001年9月19日(水)

九州大谷短期大学の集中講義を三日間やる。一年生の戯曲論と二年生の劇画論。かなり高度な話をやったが、学生はついて来てくれた。専任でいつもいるより、学生は物珍しさも手伝って、真剣に聞いてくれるんだな。集中講義も悪くなる。福祉学科の栗村教授がわざわざ見えて、来年からは福祉学科の集中講義もやって貰えないか、という話だった。演劇放送の学生と連続では厳しいので、期間を離して頂けないかとお願いした。

いつものように全日空で、往復する。最近は機内放送にグッチ裕三の番組がある。この人、選曲の巧者である。自分の持ち味がきっちり測れている。

今、グッチさんの選曲で特に好きなのは、河島英五の「旧友再会」である。河島英五が死ぬ二日前にやったライブの音源を、娘さんのアナムさんが手を入れてできたもの。

ベタな曲といってしまえば、それまでだが、河島英五の生き様がわかって、染みる。河島は男らしく生きた。

著作権に触れたら、書き換えるが、この曲は歌詞を書いておかないと、買ってまで聞こうとする人はいない。


「旧友再会」   河島英五とアナム&マキ

今日は本当に笑った
腹の底から笑った
夕べはあんなにふさいでいたのに
君に会えて良かった
今日の酒は美味かった
気持ちよく酔っ払った
一人でしんみり呑むのはつらいが
今日の酒は美味かった
ともに過ごした青春
今では笑い話さ
もしももう一度やりないせるならば
もう少し上手くやりたいね
今日は本当に笑った
腹の底から笑った
わざわざここまで尋ねてくれて
今日はどうもありがとう  

 

こういう曲をちゃんと自分の番組に入れるグッチさんは、優れたアーティストである。



2001年8月5日(日)

30年振りに筑後川の花火大会を見る。九州一の規模の花火大会で、一度見たいと思っていた。アサヒ・コーポレイションが倒産したあとの久留米経済は壊滅的な状況である。どうやって寄付を集めるのか。それでも今年は13000発を打ち上げた。

花火は一瞬で消えてしまうから、花火職人はその一瞬に賭けようとする。だが、「賭け」の気持ちが強すぎると、「ベタ」な花火になってしまう。花火の美は「微妙なずらし」が勝負になる。「絵画」や「書」のようにかき足し、かき直しができない状況で、かつ、一発一発に大金が投じられ、一瞬に賭けつつも「ずらしの妙」を追求する。難しい芸術だ。サッカーでいうなら、大事な試合の大事な局面で、バランスを崩しながらシュートする感覚に近いといえまいか。

後半に三組ほど、納得の花火を見せてくれた「組」があった。光の組み合わせが「艶」に至る。

最後に、巨費を投じたと思しい大規模な花火があった。いい花火だったが、力技過ぎて私には、「ベタ」に感じられた。私の周りにいた中年のおばさんたち三人(三人ともすごく太った人だった)はそれが一番よかった、と口々にいっていた。私が「これは駄目だな」と心の中で呟いた直後のことだったので、一瞬戸惑った。だが、帰り道、「ああいう花火も必要なんだ」と納得した。

さすがに「九州一」だけあって、九州のあちらこちらから、ヤンキーの若者が来ていた。思い思いの派手なコスチュームを着て集まってくる。総勢で何百とか何千の人数であろう。壮観だった。普段ヤンキーに接することがないので感動に近い体験だった。目が合わないように歩いた方がいいだろうと思ったが、コスチュームのデザインを楽しみたいので、ついつい見てしまった。

久留米からたくさん芸能人が出るのは、この花火大会が理由の一つになっていると思う。

花火では歩道橋の事故が全国的なニュースになったので、警察官が異常に増員されていた。見物が河原に入り過ぎないように、ロープを張って入場制限をしていた。「入れないんですか?」と聞いたら、「これ以上入ると、押されて川に落ちる人がいるんです」という奇妙な答え。去年はそこまで配慮しなかったらしい。一回事故があると、万が一を恐れて、見物が困るような警備になる。こんな時期に花火大会で事故を起こしたら、警察はマスコミになんといわれるかわからない。それは当然だ。だが、実際は安全第一の祭りなんて、面白くも何ともないのである。どう考えればいいのか、困ったものだ。

久留米の人口は約23万人である。観客の数は、47万人。河川敷の広さはどの程度であろう。これで「事故を起こさない警備」をすれば、「せっかく来たのに花火の近くに行けなかった人」だらけになるはずである。

道端で、三度ほど飲みにいった「アジっ菜」のママとすれ違う。「アジっ菜」の従業員はみんないつも一所懸命働いている。私は自分が飲み食いする場所は、「従業員が一生懸命働いている所」を基本にしている。ママとは、一言もしゃべったことはないのだが、二度目にはこちらのことをちゃんと憶えている風だった。道で一瞬目が合い、「あれっ」と思い振り返ると、向こうも同じような感じで振り返ったので、目が合った。大きな店の、端っこの方で呑んでいる、あまり目立たない客の私をやはり憶えていたのだ。いい店を見つけたな、と思った。



2001年7月11日(水)

遂に、「週刊少年マガジン」の32号が出た。この号は忘れられないマガジンとなる。哲也がドサ健に負けてしまうのだ。少年マンガの主人公で、全てを出し尽くして、「負ける」キャラクターが他にあったろうか。

考えに考え抜いた末に作った話だが、「果たしてあれでよかったのか」と悩み通しだった。しかし、今の哲也では、「どう頑張ってもドサ健には勝てない」と思う。結果的に自分を裏切らなくて良かったのかもしれない。いや、裏切った方が良かったのか――。本当のことは今もってわからない。



2001年7月9日(月)

「ヤングマガジン・アッパーズ」に連載中の「バサラ」の単行本・第一巻が出た。表紙で炎が燃えている派手なカバーだ。こんなにガッツを前面に出した漫画は近頃まれではないか。第一巻は麻雀ばかりのシーンなので、麻雀ファンにも買ってもらえると思う。

「哲也」の総集編第9集の「作者のことば」を書く。第9集は「小龍」編である。日本代表と中国代表が、日本海上で決戦をするという、私好みの話である。総集編はいつも月末に出るのだが、8月はお盆前に出すので、原稿が早く要るのだそうだ。分量が「200字」なのだが、いつも苦しむ。一応、原案者なので「ワザ」を見せなくては、などと考え過ぎて、よく失敗している。



2001年7月6日(金)

九州大学で「マンガ表現論」について講義をする。九州大学は国立大学で唯一マンガ学の講座を持っている。日下翠先生が、今年から学部でもはじめた「マンガ学」のコマである。いくらマンガ学のコマとはいっても、1、2年生にかなり専門性の高い話をした。ちゃんと聞いてくれるだろうか、と心配した。

学生は一時間半静かに聞いてくれていた。不思議な感じだった。私は浮いていたのではないかと思うのだが、本当はどういう風に聞こえたのだろうか。レポートを書いて貰うので、読むのが楽しみだ。

7月28日、29日、30日と京都で「マンガ学会」の設立・総会が開かれるという。日下先生と一緒に参加することにした。



2001年4月30日(月)

「マガジンフレッシュ」を読む。少年マガジンでのデビューを目指す若手たちの登竜門の雑誌。いい描き手がいないか、いつも注目している。今回は手応えがあった。斎藤和衛氏の「REPLEECEMENT」がいい。この作家は伸びるな。躍動感を切り取るカメラアイを持っている。



2001年4月27日(金)

昨日録画しておいた「天国までの100マイル」を午前中に観る。松原敏春氏(脚本家)の遺作である。部屋の電気を消して、カーテンを閉めて、映画館のような雰囲気にして観た。真剣に、ひたすらに生きた人だけが辿りつける言葉が、たくさん綴られている。号泣した。実はそれほど期待していなかった室井滋の芝居がひっくり返るほどよかった。圧巻だった。何という明るさと深み。「ありがとう」という台詞を〈あの領域〉でいえる女優が他にいるだろうか。この人は、間違いなく太知喜和子に近いところまでいくな。

私が松原氏の戯曲が「すごい」と思ったのは、20年以上も前のこと。一時期、この人は戯曲を精力的に書いた。当時、演劇界とりわけ新劇ジャーナリズムは余り高い評価をしていなかったように思う。松原氏は「テレビの人」というくくり方をされていた。演劇ジャーナリズムと無縁の私は、松原氏の新作をよく観た。「純情三部作」、胸に染みてよかったな。演劇界はもったいないことをした。

この作品、演出の大山勝美氏をはじめ、出演者の多くは、松原氏の遺作になるかもしれないという予感があったのではないか。いや、そんな気が毛頭なかったから、あれほどの作品になったのかもしれない。



2001年4月26日(木)

漫画ゴラクに、愛弟子松下則正の遺作にしてデビュー作の「スティンガー・セロ」が載る。松下を思い出し、涙が溢れる。副編集長の西島氏はちゃんと表紙に松下の名を載せてくれた。ありがたい。感謝する他ない。まだ、原稿はたくさん渡してあるので、できるだけ続いてくれるよう祈る。



2001年4月21日(土)

隠れキリシタンの取材で、平戸・生月島を回る。生月島には今でも、隠れキリシタンの人たちがいる。生月島ばかりでなく、長崎、天草周辺の島々には、隠れキリシタンはたくさん続いている。

今では隠れる理由はないのだが、徳川幕府が続いた260年の間に独自のスタイルが出来上がって、キリスト教とも相容れない宗教が出来上がったのである。「隠れキリシタン」という言葉を変えた方がいいように思う。

鹿児島には「隠れ念仏」という一向宗徒たちがいた。一向宗とキリスト教は、日本では似た感じになる。在野という点で同じだし、神父や僧侶が説教をするというスタイルも似ている。

生月島に「ダンジク様」という、隠れキリシタン処刑の後がある。平戸の正反対の海岸に潜んでいたキリシタン親子三人が船に乗っていた官吏に見つかり、処刑されたのである。子供が外に出て、見つかったらしい。切ない。子供をじっとさせることはできないものだ。海岸の石を積んでできた小さな社には「ダン竹大明神」と記してあった。



2001年4月20日(金)

九州大学の教養課程で講義をする。本来は日下翠先生の「マンガ学」の授業だが、ゲスト講師として喋らせてもらった。今日は新学期二回目。講義の内容には、自信があったのだが、しゃべりの「運び」がなっていない。学生を飽きさせたかもしれない。九州大谷短期大学の専任を退いて、一ヶ月近いブランクがある。しゃべりに滑らかさがない。勘が鈍っているのだ。やはり、非常勤でもいいから普段から喋っていないとまずいかもしれない。(注:九州大谷短期大学の非常勤は続いています。ただし、集中講義のみです)

これからマンガ学の勉強を本気でする。日下先生にはお世話になることになる。一年に何回かは、学部・大学院を問わず、顔を出させていただくことにする。

ちなみに、6月6日(水)11時から、東京工芸大学で一般教養の講義をする。タイトルは「マンガのできるまで」。



2001年4月17日(火)

「SOHOコンピューティング」(サイビズ)の取材で湯河原に行く。相手は布施英利氏(作家・評論家)。氏は4階建ての温泉旅館を買い、そこを住居にしたという。道中、道に迷ったのだが、布施氏は家の前で待っていてくれた。そんな心遣いのをする人だった。

湯河原の駅前でカメラマンと待ち合わせたのだが、担当のカメラマンは田中康弘氏。ずっとマタギを追いかけている人だ。実は10年以上前、田中さんとは仕事ではないところで呑んだことがある。それ以来だ。ひょんなことで、関係が再開する。帰りに、温泉に浸かる。



2001年3月3日(土)

松下則正火葬の日である。両親と挨拶をする。思った通り、素晴らしい方だった。松下の愚かさまでも、愛されたのであろう。松下は幸福な家庭に育ち、幸せに生きた。

松下の死体は元気なままの状態で、医者にも死因が判然としなかったそうだ。解剖の結果、血管に菌が入り、急激に増えたのが原因らしい。だが、納得のいくものではない。菌の種類もはっきりしていない。現代の医学でもはっきりとは解明できない領域なのだろう。
代々幡斎場は事務所の側にある。松下の友人、元彼女、今の彼女と共に過ごす。松下の理想の高い人生を見る。松下は男らしく生きた。

松下の書いたものを何とか、漫画にしなくては。祈るほかない。祈るほかないことはわかっているが、口惜しい。
「漂鳥の儚」の初日が、あと5日に迫っている。芝居を松下の霊前に捧げよう。



2001年3月1日(木)

制作の金子から深夜連絡が入る。私の愛弟子・松下則正が急逝したとのこと。事故ではないが、突然の病死とのこと。なんということだ。無念である。無念というほかない。松下の原作はもう企画を通過し、漫画家の選定作業に入っている。デビュー間近の新進漫画原作者である。神は何を考えて、こんなことをされたのか――。あまりにもひどい仕打ちではないか。

松下は昨年6月に私が最初に取った弟子の一人である。その時はたった一人の枠に、六十人の応募があった。有名大学卒の秀才がたくさん混じっていた。弟子にしたのは、谷津である。谷津はテレビの2時間ドラマを書いて、既に実績のある男。当然の合格だった。だが、私は何か感じるものがあり、松下を面接に呼んだ。学歴は高卒。下手な童話作品が同封してあった。松下は「賞に応募したが、予選も通過しなかったもの」だと説明してくれた。松下を、私は才能のある男だとは思わなかった。だが、やる気があるなら、私の元で勉強してみないか、と申し出た。松下は、即座に私の申し出に飛び付いた。
俺がそんな酔狂な真似をしたのには理由がある。松下は、松下の目は、いらだっていた。自分が社会にかみ合わなくて、上手く世渡りができないでいる。何とか社会と折り合いをつけたいのだが、その方法がわからなくでもがき苦しんでいる。そんな目だった。もちろんそういう男はたくさんいる。だが、松下のもがきはかつて私が経験したそれに似ている。私は松下を通じて、かつての自分と向き合おうとしていたのかもしれない。

松下に書きたいテーマを出させると、すぐに書いてきた。二つのテーマを持ってきた。少林寺拳法の経験があるので一つはそれ。ナンパに自信がある様子で、もう一つはそれ。最初は格闘技物を書かせたが、作品と上手くかみ合わなかったので、後者を追求させた。松下は、予想通り下手な作品を書いてきた。ところが、いいところがあった。「こう書きなおしなさい」というと、必ずその意図を受けて、書きなおしてきた。原稿を持ってくる日は、決まって目を腫らしていた。徹夜で仕上げてきたのだろう。だが、苦しんだという素振りは見せなかった。書きなおしのレベルも決して高いとはいえなかった。だが、こういう男を発掘する仕事こそ、私がやるべきなのではないか、と思った。物書きとして、生まれもった才能のない私は、努力だけで何とか今の状態にたどり付いた。松下を何とかすることは、かつての私のような人間の希望となるのではないか、とも思った。

松下の苛立ちはわかっていた。私は面接の時に、「両親の仲はいいか? 育った家庭はよい家庭か?」と聞いた。松下は頷いた。両親から愛情を注がれて育つと、先ず愛情の尊さを覚える。人に愛情を注ぐことの尊さを知る。生まれて、先ず、愛情を覚えた人間は自分に高い希望を持つ。自分の能力をかえりみずに大きな夢を見るものだ。結果、「全か、しからざれば、無か」という生き方になってくる。どちらにしろ苦しい人生が待っている。天分を持たずに、その生き方を求めると、その苦しみは言葉では伝えられないほどだ。

原稿を書く仕事は苦しい。毎週毎週では逃げ出したくなるものだ。特にアイデアのストックを持たない、デビュー前の新人には過酷だ。だが、松下は逃げなかった。必ず書きなおしてきた。男だった。男らしい男だった。だから、私も出版社に売りこんだ。
私が書いたほうが、余程楽だ。毎回毎回脱線続きになることは目に見えている。だが、こいつをデビューさせたいと思った。それは「私もそこから這い上がったのだ。それで松下が這い上がれないのでは、昔の私もかわいそうではないか」と奇妙な感情移入がそうさせたのだ。
やっと、半年も書けてデビューにこぎ付けたのではないか。一体、この世はどうなっているんだ。

無念だ。返す返すも無念だ。これから私は松下の無念を胸に書き続けるほかない。松下、待っていろ。私もそのうち行く。そうしたら、松下、一緒にナンパ物を書こう。



2001年2月25日(日)

終日、「ヤングマガジン・アッパーズ」の新連載「バサラ」の原稿を書く。

俺と金子と谷津で、ブレーン・ストーミングをし、ドラマの核になる部分、ストーリー展開などを大筋で決め、荒稿を谷津が書き、俺が完成稿にするという手順ができつつある。谷津はテレビの仕事をしているだけあって、何が求められているのかがわかっている。
俺が30歳の頃は馬鹿だった。何も考えていなかったと思う。よく生き残ったものだ。

が、原稿ははかどらず、夜11時ごろからエンジンがかかって、2時頃終わる。鹿児島の焼酎・伊佐美を呑む。



2001年2月24日(土)

演出の岩村先生が文学座の卒業公演の本番なので、代稽古をする。代稽古というほど立派なことはしないが、演出家の真似事をして手を叩き、きっかけを出すので、ちゃんとやらなければならない。俺が相手で、役者さんも随分リラックスして稽古ができたようだ。
芝居はどんどん深まりつつある。

俺のエンターテインメント性と岩村先生の新劇性が合体して、ほどよいよい状態だ。岩村先生も、お新香臭い芝居をやらないので助かる。

今度は、活劇あり。恋あり。博打あり。どんでん返しあり。本当にもり沢山。それでわかりやすい話だから自信を持って、舞台に上げられる。

夜は、今回出演してくださる文学座の女優・藤堂陽子さんの芝居を見に行く。「パレードを待ちながら」。カナダの劇作家の手になるものだ。演出は元・文化座の貝山氏。以前、俺が演出に悩んでいた頃、何回か相談に乗って貰った方だ。

夫が出征した後の女たちの話だ。藤堂さんの芝居はよかった。流れに逆らって生きる女が合うのだろう。俺が今回書いた美倫という役は当たっている、と思って帰途についた。



2001年2月23日(金)

福岡から東京に帰る飛行機に乗り遅れる。
いつもぎりぎりまで仕事をして、最終便で帰るので乗り遅れる。乗り遅れると福岡でホテル泊となる。

今日はたまたま臨時便が21時30分に出たのでそれに乗れた。うちに着くのは1時だ。明日は稽古だ。機中で台本を読む。



2001年2月20日(火)

今日発売の「アッパーズ」、次号から連載される俺のマンガ「バサラ」の予告が載っている。俺のマンガ第二作である。マンガ家はミナミ新平氏。新人である。気合が入っている。俺もマンガの世界で先輩になりつつある。

誰もが予期しなかった、壮大な物語を書こう。権力におもねることのない、不撓不屈の男を書こう。理不尽に果敢に立ち向かう男を書こう。



2001年2月17日(土)

円・演劇研究所の卒業公演「ギプシー」を観る。演出の福沢富雄氏には、最近随分世話になっている。大谷の教え子・西窪も出るので、三鷹芸能劇場まで出かけたのである。「漂鳥」に出る役者の奈津子と一緒である。奈津子も円の卒業生である。

芝居は面白かった。というより、演出が丁寧で作品の持つ世界を、緩急をつけながら、きちんと観客に伝えている。これは「あたりまえ」のことではない。普通の演出家はあまりやらないのだ。いや、できないのだ。評論家の目が気になるから。

福沢氏はそんなこと気にせずに、当たり前のことをやっている。卒公だからできるともいえるが。そのうち、一緒にやる日が来るかもしれん。

役者にいいのが一人いた。苗字は忘れたが、「夏海」という名前だった。これから伸びる。



2001年2月13日(火)

3月8(木)、9(金)、10(土)、11日(日)に公演する「漂鳥の儚(ひょうちょうのゆめ)の三稿が脱稿した。俳優さんが読んで下さっても、ほぼすんなり聞いていられる。もう大丈夫だ。後は2〜3箇所の手直しで済むだろう。
「賭博師・梟」「鳳凰の切り札」と二作品して、「死」と真剣に向き合った作品だった。今回はテーマが少し軽い。アップテンポで演出してもらいたい
それと活劇シーンを見せ場としたい。

舞台は敗戦直後の横浜中華街。中国の革命家・孫文が九年も亡命先に選んだ場所だ。主人公は孫文の息子を騙る男。
孫文という中国の革命家の肖像、その大風呂敷に乗る中国人という人民が浮き彫りにされる仕組みだ。俺にしてはシャープな感じの世界を描いた気がする。

芝居は俳優の勢いが全てだから、その底力に期待したい。



2001年2月8日(木)

評論家・平岡正明氏と座談をする。場所は横浜中華街。『漂鳥の儚』のパンフレットに載せるためである。石川町の改札口で待ち合わせたのだが、平岡氏はゲンチャリで現れた。俺は「平岡正明健在だなあ」と唸ってしまった。パンフレットでは、演出の岩村さんと3人で話したことになっている。「ことになっている」が、実は殆ど平岡氏の話があまりにも面白かったので、私はずっと聞いていただけだった。ジャズの話、今は中華料理屋を経営するゴールデン・カップスのエディ・藩の話。文学の話。中国の雑劇の話。マイケル・ホイの話。石原慎太郎が若い頃に書いた傑作の話。いちいち内容まで記したらきりがない。面白くて面白くて、仕方がなかった。読んだ本の内容を、筋や登場人物、その人間関係まで全て頭の中に入っているんだぞ。すごい脳だ。
が、俺の「漂鳥の儚」を平岡氏はとても気に入ってくれている。それが嬉しい。俺は価値観が定まっていない社会を描きたいのだ。そんなテーマをもった若い作家にどんどん出てきて欲しいのである。

なんだか最近はお行儀のよい作家が多い。

平岡氏は俺ぐらいの年のとき、言葉の戦場で暴れまわっていた。あの博覧強記は真似できないが、平岡兄貴をガッツは見習わなくては。
また、どこかで会いそうな気がした。

そういえば、平岡兄貴の盟友・竹中労氏に昔一度芝居の案内を送ったことがある。竹中氏の著書を参考文献にしたからだ。竹中氏は、闘病中で見ることはできないが、そういう便りを貰うことが嬉しい、と手紙をくれた。竹中氏がなくなられたのはそれからほどなくしてのことだ。

平岡氏にはそのことを話しそびれた。



2001年2月3日(土)

福岡で「マンガ」に関する講演をする。三時間を九州大学の大学院でマンガ学を研究する日下翠先生と二人で喋る。聴衆の多くは、「子ども劇場」で活動する主婦だった。もちろんマンガファンもいた。

日下先生が「研究の方法と理論」を主に喋る。俺は「マンガができるプロセス」を喋る。
参加者の多くは「日本のマンガはそんなにすごいのか」とびっくりしていたようだった。一方、子どもの「メディア漬け」が心配とのこと。確かにそうだ。アニメやマンガにもいろんな考えた他の人がいる。ほかの人の考えまでは俺にはわからない。

来年も、何度か九大の学生・院生に喋らせて貰い、反応を見てみようと思う。



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