放浪日記2003

筆・さいふうめい




2003年12月30日(火)
「競輪グランプリ」に、京王閣に赴く。弟子の三枝。競輪評論家のおかひろみさんと、合流。おかさん手配の腕章で、暖かく勝負が出来た。感謝。11レース(メインレースの前)。久留米競輪の加倉正義が、前日まで不調。人気が落ちていた。が、加倉から流した。加倉の周囲の空気がピンと張っていたからだ。ゴール通過時、加倉は2着。負けか――。が、一着で入った選手が失格。加倉は、タナボタの勝利。俺はお陰で快勝。力強い勝ち。当然配当も大きい。自分の読み、ツキに手ごたえを感じる。こういうレースで勝てるのは、ヒキなんだよ。メインレースの「グランプリ」。山田、村上辺りが人気。別府の小野が、村上の後ろを走るので、小倉の吉岡稔真は、単騎になる。つまり、9番目からの捲くりである。大方の予想は、「吉岡は届くまい」である。久留米競輪の池尻浩一さんは、「吉岡は本格復調とはいえないのではないか」といっていた。多分、その読みは正しい。正しいが……。「吉岡復活」はある。小野はどうか――。男を上げるか――。が、一着はないとみた。結局、俺は、吉岡の一着しばり、小野の二着しばりで何点か流 した。で、出走直前、「吉岡が届かない」との想念が湧いた。「やはり届かない」――。「吉岡が届かない」……。「吉岡復活」……。どちらも間違いない。そう思った。何故だ――。で、気づいた。吉岡の二着しばりだ。だとしたら一着候補は、少ない。締め切り直前に「吉岡二着しばり」の車券を買う。結果、吉岡は二着。差は、一着の山田と殆どない。吉岡、復活――。俺は読みどおり、しかも、直前のひらめきが当たり、手ごたえ十分の勝利。




2003年12月28日(日)
有馬記念。武の馬から、流す。一番人気のペリエの馬は、配当がつかないから、買わない。勝負は、ペリエー武で決まる。馬券は外れた。が、武から入る読みは、的確だった。力強い敗戦。勝ちより、意味のある敗け。手ごたえを感じる一日。



2003年12月26 日(金)
講談社の寄稿家交流会。ゲストのMEGUMIがあんまり弾けていたので、一緒に写真を撮らせてもらった。「哲也も宜しく」といったら、間髪いれずに「ハイ」と答えてくれた。売れている、というのはすごいな。間が完璧だもんな。著作権の問題もあるだろうが、ここに貼るのは、許されるかな。事務所から文句が出ないことを祈ろう。第7編集局長の田宮さんと、ひとしきりMEGUMI論を交わす。デビュー当時、MEGUMIは、もっさりしていて、他のアイドルの後塵を拝していた。一般の評判もよくなかったように思う。俺も、基本的に一般論に近かった。が、少し違った。世論が一致し過ぎている。一致しすぎる世論は、外れるかもしれない、という予感である。で、俺流の運の理論から、気にして見ていた。一発大駆けがあるからノー・マークには出来ないタイプに見えた。田宮さんは、「MEGUMIは頭がいいんだよ」という。デビュー当時は、頭が良さそうには見えなかったよな。えらも張っていたし。いま、MEGUMIのえらははっていない。頭もいい。田宮さんは、「売れるとあごがすっきりするんだよ。さいさんと同じ」といってくれた。田宮さん は、俺にアッパーズの仕事を振ってくれた恩人。田宮さんは、ヤングマガジン隆盛の立役者。MEGUMIが見えているってことは、使い手だってことだ。だから、ヤンマガがあるんだよな。俺は、NEGUMIは人間を見る上で、重要な観点を示してくれたアイドルのように思う。小池栄子や、上戸彩、釈由美子なら、誰だってわかるもんな。田宮さんに最敬礼。







2003年12月12日(金)

『神鷲は死なない』の公演を終えて、一週間が経った。
本当にばてた。が、面白かったな。
4日(木)のマチネを除いて、客席はほぼ埋まった。
劇場の都合で日曜日に公演が出来なかったが、本当に多くのお客様に来て頂いた。
ありがたい。
エイサーの評判がよかった。役者たちが、胸を打つ踊りに達してくれた。
まるで、ミュージカルのように、踊りの終わりに拍手が起きた。
初日に、美術の加藤チカから、「踊りがなんか弾けてこないんだよね」というアドバイスがきた。いくつか考えて、理由がわかり、役者にダメを出したら、一気によくなった。
チカさんの美術、大変だったが、芝居のグレードを上げてくれたな。米軍基地から、戦果アギヤーの店の中、最後は、基地の広場へと、大転換三つ。
本番中に事件が1つ。
照明家の小関さんが、観に来た。
小関さんは、今回のプランナー・沖野さんの師匠にあたる。で、オペレーターの野中さんを、借りたい旨、弟子の沖野さんの頼もうという気持ちで観に来たのだ。
で、小関さん、野中さん、俺で呑んだ。俺は、普段小関さんの使うオペレーターの、どこがいけないのか、という話から、どんどん熱くなり、小関さんも、それは俺に対する批判だと引くに引けなくなり、最後は、小関さんと殴りあう寸前になる。野中さんは、逃げ出したかったらしい。俺があまりにも本気でいったので、小関さんが抑えてくれて、殴り合いは回避されたらしい。(野中談)
最後は、小関さんが、野中さんにオペを頼むところで落ち着いた。頼んで見れば、小関さんが普段使っているオペレーターがいかにぬるいかがわかるという、俺の主張でもある。(小関さんは、最初から頼むつもりなのだから、本来は何も問題はないのだが、こうなってしまった後で頼むのは、異常なことかもしれん)
野中さんは、「小関さんとやるときは、必ず来てよね。責任とって貰うから」という。俺は行く、と約束する。喧嘩しに行くようなものだな。
昔はよくこういう喧嘩をした。
悪酔いをして、帰りは小田急線を乗り過ごす。で、乗り過ごした駅から、タクシーで家に戻ってくるというパターンも昔のまま。
そういえば、昔は自己嫌悪みたいなものが、芝居のエネルギーだったな。「屈折している」というのが誉め言葉だったし。
俺は、タクシー待ちの列に並びながら、初心に帰ったような気がした。へべれけに酔っ払ったが、晴れやかだったな。
この芝居で俺は生まれ変わった。ホンも力強くなったが、俺が喧嘩を恐れなくなった。



2003年11月29日(土)

毎日「神鷲――」の通し稽古。
ここまで苦しんだが、芝居は仕上がる。後、4日で幕が開く。
下腹に力の入る芝居だ。
登場人物たちの「引くに引けない」精神世界が、役者からにじみ出れば、申し分のない舞台になる。
「命ど宝」――。
今俺が考えている「生きること」が、観客に伝わるか――。



2003年11月26日(水)

競輪漫画をやりたいと思っている。
日本最高のプロスポーツにして、ギャンブル。
俺にとって、こんなに面白いテーマはそう多くない。
で、我が人生の師・藤田博史に競輪選手の肉声を聞いてみたくなった。
藤田さんは、時々この放浪日記に出てくるが、久留米競輪で、二番目のベテラン選手。これまで、馬鹿な話はたくさんしてきたが、競輪選手の肉声を聞いたことはなかった。
俺は藤田さんと真面目に話してみようと思った。
で、久留米の琥珀亭で落ち合おうと、いうことになった。
だが、藤田さんは、「競輪の話を聞くなら、俺より、話を聞かせたいやつがいる」と三人の選手をその場に呼んでくれた。俺は、それまで、誰が来るか聞かされていなかった。が、三人が揃って、俺の目は点になった。
94年ふるさとダービー小松島の覇者・平田崇昭(55期)。
32回競輪祭新人王・紫原政文(61期)。
今や九州一のマーク屋・池尻浩一(63期)。
まだ、どこに書くかも決めていない話の取材のためのメンバーかよ。
三人の獲得賞金を合わせると一体いくらになるんだ?
さらに、藤田さんはこういう。
「本当は、加倉も呼ぼうと思うたばってん、時間の合わんやったと」
加倉って、久留米競輪で加倉といえば、加倉正義のことじゃねえか!
久留米のというより、九州のオールスターだぞ。そんなメンバーを喫茶店に集めていいのか!
俺は、黙ってこういうことをする藤田博史の偉大さを、人は気付いていないと思う。
だが、取材は面白かった。三人+藤田さんから、俺はすごい話を聞いてしまった。
聞きながら、興奮していた。
人間の限界を見ている男たちの、肉声には陶酔がある。危険にして甘美――。
吉岡稔真の後ろを走るとは――。
児玉と小野(別府)の違い――。
小野は、競輪グランプリに出るらしいから、見てみようと思う。
「井上茂徳は何故オニアシなのか」と俺。
「やることなすことが全てオニだから」と平田さん。
これは面白かったな。本当はそれまでの話を書かないと、「オニ」の意味が伝わらないのだが、書けば長すぎる。
しかし、俺の中で、児玉と井上を足した「オニ」のイメージが、どんどん膨らんでくる。
では、オニとは一体何なのだ――!
精神の限界――。いや、虚無――。まだ、足りない。
俺の中で発酵するには、もう少し時間がかかる。
だが、いい作品ができる。手ごたえを感じる。
平田さん、紫原さん、池尻さん、心から感謝――。
次に、彼らがG1に出る時は、少しばかり張り込もうと、心に決める。



2003年11月12日(木)

「神鷲――」の稽古に、毎日のように顔を出している。
何とか、観客の期待を裏切らないようにしなくては。
千秋楽の切符は完売だ。やはり、切符の売れもいいんだな。
振り付けのラコーナさんも、来る。
ラスト・シーンのエイサーの振り付けを頼んだ。
力のこもった、いいラスト・シーンができた。
もう、基本線は大丈夫だろう。部分的なチェックが、追い込みの課題だ。

「哲也」の総集編20巻の見本誌が届く。九州篇2話が入っている。
数日後には、書店に並ぶ。
2話とも、サブキャラは少年だ。で、タイトルは「逆襲、少年博徒」。
総集編も、ずっと重ねて20巻である。これも「継続は力」だな。
「哲也スペシャル」が来月から、二ヶ月連続で出る。12月が「四天王篇」。584ページで550円。1月が「ドサ健篇」。590ページで550円。読み応えで、勝負だな。
総集編21巻は、来年二月の発売予定。前へ。

夜は「地人会」の芝居、「心と意思」を紀伊国屋ホールに観にいく。
作・演出は坂手洋二。転位・21時代からもう20年以上の付き合いになる。
坂手は、いま「スズナリ」でもやっているはず。同時に二本か。精力的だな。
「意思」という字は両方とも「心」が支えている、という話は面白かったな。
モチーフは、坂手らしい「天皇崩御」の一日。主人公は、ドキュメンタリー映画作家。地人会の仕事だから、まとめていた感じ。坂手は、時系列・空間を滅茶苦茶にしたほうが、持ち味が出るように思う。だが、自分の劇団ばかりでやっても、仕方がないし。まとめる時は、まとめるべきだな。坂手の頑張りは、励みにはなる。
次の俺の芝居の話になる。坂手はかみさんが沖縄の出身で、沖縄の芝居をいくつかやっている。俺の次回作に興味を持っているようだった。だが、旅で東京にいないらしい。再演の時に見てくれ、という。
今回は、藤井びんが出演しているので、見る楽しみがもう一つあった。
びんちゃん、坂手、俺は20年前の芝居仲間だ。さらに、田根楽子、高橋美智子も来ていた。芝居がはねて、びんちゃん、ラッコさん、ミーコさん、俺と、さながら同窓会状態。
ボジョレ・ヌーボーが解禁ということで、ミーコさんのアテンドで、それを飲ませる店に集まる。ボジョレ・ヌーボーを解禁食後にそれっぽい店で飲んだのは初めてだ。
俺は、知らなかったが、色んな味が楽しめるんだな。「青臭い酒」侮りがたし。
いつも思うことだが、ラッコさんの話は、面白い。声が大きいし。
ラッコさんは、ベトナムに二年も、店を持っていたらしい。「玉の光」や「久保田」を並べて、日本人商社マン向けの店をやったのだそうだ。
ラッコさんは、全部自分の言葉で喋る。全部本当のことだしな。だから、ここにはラッコさんの話の面白さは、書けない。残念。ラッコさんは、抜群に芝居が上手い。本人は「悪口」だというが、芝居ができる人の目から見ると、売れている役者がこういう風に見えるんだと、気付かされることが多い。殆どの話に「やっぱり、そうなんだ」と納得してしまう。
ラッコさんが「最近やりたい芝居がないんだよ」っていうのは、本音だ。俺たち、作家だけの責任じゃないが。
俺は俺で健闘しているんだが、「新しい時代を作っているんだ」という手応えが乏しいんだよな。何だか。



2003年11月10日(月)

哲也の打ち合わせ。
ドコモのiアプリで哲也の会員が多いのだそうだ。
で、今月20日から流れる、iアプリのテレビCMに少しだけだが、哲也の画像が使われる由。嬉しい。
総選挙の結果が出た。民主党は増えたが、自民党が負けたという気はしないな。
結局、勝ったのは公明党かな。
自民党は、政権を降りたことがあるが、公明党はずっと政権党のままである。
今回も、公明党の勝ちとなると、景気はずるずるっと、このままよくもならず、
悪くもならず、そんな気がする。
連立って、元気が出ないんだよな。結局、気配りだもんな。
国民は、このまま、踏ん張れということか。
まだ早いということなんだろうな。
俺自身は、踏ん張る元気はあるぞ。



2003年10月30日(木)

「神鷲は死なない」のチケットの売れ行きがいい由。制作の吉田から報告を受ける。嬉しい。今年は二月、五月と二本とも、出足が遅かったからな。二月は、最後は完売だったが。
渋谷区の衆院選のポスターを見て、切なくなる。
共産党は、セクハラで消えた筆坂秀世の後釜の人が、見るからに可愛そうな感じで立候補している。重点地区だから、泡沫候補を出すわけにもいかないし、かといって、本気で大物をぶつけても、空しいし。共産主義とは、全く別の次元で哀しい選挙だな。
「冨家たかし」という人は、「無所属の会」の公認で出ている。「無所属の会」の公認というのは、何か意味があるのだろうか。この人は先日まで、「自由党」で立候補する予定で、「自由党」と書いたポスターがあっちこっちに張ってあった。民主党が、別の人を公認したから仕方がないのだろうが、肩書きは、医師・ジャーナリストとある。バランス欠き過ぎだぜ。意地もあるのだろうが、もう止したほうがいいじゃないか。悲惨すぎる。
とはいっても、私は、政権交代をやる絶好のチャンスが来たと思っている。政権交代はやらなくちゃ駄目だ。かき混ぜないと、コップの水は腐るんだ。



2003年10月29日(水)

少年マガジンに「哲也」が一挙二話掲載された。
カラーページを含めて、46ページ。
ダンチ新撰組篇のラスト二回分だけに、圧巻の読み応え。
反響は大きいだろうと確信する。
カラー頁1ページを使って、コミックが1000万部を超えたことが告知されている。
「神鷲は死なない」のパンフレットの原稿を書く。
 放浪日記の読者だけに、こっそり教える。

 創作メモよっつ
                             さい ふうめい
○「アギヤー」はもともと沖縄独特の追い込み漁のこと。漁師が海に入って、魚を網に追い込むのだが、漁具が簡単な割りに多くの魚が獲れる。そういう言葉を、米軍基地から物資を盗む連中の呼び名に転用するところに、ウチナーンチュの粋を感じる。劇中の「戦果アギヤー」たちには海洋民族の明るさを託したい。
○「エイサー」は沖縄の盆踊りの総称である。名称は、盆踊りの冒頭に歌われる念仏歌の「エイサーエイサー」という後バヤシに由来する。本土から来た念仏聖(ひじり)たちが広めたのであろう。
○念仏衆、すなわち一向宗徒は戦国時代、猛将・織田信長さえも震え上がらせた。天下統一という欲に突き動かされる信長。全てを捨てて浄土を目指す一向宗徒。
――ウチナーンチュのニライカナイ信仰は、浄土信仰に近い気がする。
○「エイサー」は足踏みに特徴がある。ウチナーンチュとルーツを同じくするルソン島北部の少数民族たちの踊りにも、足踏みは多い。彼らは「大地の神よ、目覚めよ。我に力を与えよ」と足を踏む。

 この原稿なら、先行しても許されるだろう。
 雑誌に書いたものを、乗せるわけにはいかんからな。




2003年10月28日(火)

「ヤングジャンプ」の編集から、写真を送って欲しいと依頼がある。
次期、「ヤングジャンプ」原作部門の審査を引き受けたのだ。
その告知が、来週発売号であり、そのための審査委員紹介に使われる由。
丁度、清水啓二さん(スタジオ インスピレイション)に撮って貰ったものがあり、それを使うことにする。



2003年10月27日(月)

「文芸別冊」を何冊か買おうと思って、書店を二件歩く。だが、売っていなかった。既に売り切れたのか、あんまり刷っていないのか。俺の勘だと、売れたほうじゃないかと思う。
どこで入手したのか、哲也の「下打ち」の時、都丸さんが、みんなに配っていた。
いい本だという手ごたえを感じたんだろうな。



2003年10月24日(金)

河出書房の「文芸別冊 色川武大 阿佐田哲也」が送られてくる。
あと、数日で書店に並ぶだろう。
俺の評論約80枚が載っている。
題は「焼け跡と博奕と 色川武大 阿佐田哲也の人間観・世界観」と題するものだ。
哲也を7年近く連載しているうちに、阿佐田さんについて、色んなことを考えた。
気付きもあった。それを自分なりに、まとめてみようと思って書いたものだ。
伊集院静と村松友視の対談は、いい組み合わせだったと思う。
巻末に、色川・阿佐田作品のレビューが付してある。丁寧に読み込んであるなあ、と感服した。骨の折れる仕事だと思うが、ああいう仕事を手を抜かずにやることが大事なんだと、思う。



2003年10月20日(月)

『神鷲は死なない」の直しがほぼ終わる。
長い闘いだった。へとへとだ。
稽古終了後、役者達と幡ヶ谷の沖縄酒場「島物語」で呑む。
沖縄の芝居をやるにふさわしい明るい酒だったな。
このまま、押せ押せで初日を迎えたい。




2003年10月16日(木)

「神鷲は死なない」の四稿目に入っている。
さすがにばててきた。
だが、気を緩めるわけにはいかない。前進あるのみだ。
6年続けたシリーズの総決算なのだ。
今回はぶッつぶれるまでやってやる。
役者さんには、稽古できる形で渡してあるから問題はないが、
それでもまだ変更の可能性がある、というのは気合が入らないだろう。
明日には、渡せるだろう。
胸が撫で下ろせるよう、今夜は頑張ろう。



2003年10月15日(水)

またしても、ヤフーBBが、電話が込み入ってるというるという理由でつながらない。
3月ごろ、ADSLのためヤフーに入ったのだが、電話の調子が悪いし、不具合が続いた。いやになった。
挙句に、たまたま入った代理店と、ヤフーの責任の境界線があいまいで、それは「あっちに電話してくれ」「それはこっちではわからない」などが続いた。
嫌になって、6月頃やめた。その時はちゃんとモデムも回収に来たのだ。
それで終わったと思っていた。
が、毎月、カードからヤフーに金が落ちていくのだ。今月も。
時々、時間に余裕があるとき電話をしているのだが、いつもつながらない。
それが、もう二ヶ月続いている。
金は引き落としている。「おかしい」といいたいのだが、電話がつながらない。
ヤフーはいつまでやめた会員から金を取り続ける気なのか。(ヤフーは自分でチェックできないのか。変ではないか)
これは、犯罪に近い状態ではないか……。



2003年10月7日(火)

『神鷲は死なない』の顔寄せ。稽古始めである。
美術の加藤チカさん、舞台監督の松本仁志さん、照明の沖野隆一さんも元気に姿を見せてくれる。
制作の北川さんも駆けつけてくれた。心配なのだろう。
一週間前に、初稿を上げていたので、加藤さんからは美術プランの「ラフスケッチ」があがってきている。
早い。しかも、格好いい。
米軍のフェンスを本物でやりたい。フェンスを沖野さんが、染めてくれたら、綺麗に決まる。が、まともに作ると金がかかりすぎるからな。どこかに廃材でも出ないか。なんとかするしかないな。
夜、役者さんたちと呑む。一日半寝ていなかったので、ばてて俺だけ11時に帰る。情けない。もっと、熱く行きたかったのに。



2003年10月6日(月)

哲也、打ち合わせ時に、編集からコミックの累計が1000万部を超えたとの連絡を受ける。
1000万部突破は滅多に出ない由。
大爆発して、その数字に達したのではなく、こつこつ積み上げてここまできたのだ。実感もひとしお。
同じく、編集から仄聞するところでは、PS2のゲーム「哲也2」も順調らしい。
爆発することはないが、一定の打率はコンスタントに残す漫画ということになるのか。
こういうのは、俺の運の理論からすれば、実力と判断してよい。それも強力な。
自信にはなるな。
週刊金曜日のエッセイの今週分は、哲也について触れる。恐らく、金曜日の読者は『少年マガジン』の内容を知らない人が大半だろう。
どんな反応になるだろう。だが、俺のような書き手が、週刊金曜日に書くことに意義があると思う。



2003年10月1日(火)

昨夜、ダイエーホークスが優勝を決めた。
朝日新聞の人物コラムは、思ったとおり城島だった。
嬉しい。
週刊金曜日に入れるコラムを、急遽、野球の話に差し替えて入稿する。



2003年9月30日(月)

睡眠不足が限界に達していたので、休む。ただ、だるい。ずっと寝ていた。
夕方、北野武の「座頭市」を観る。座頭市は一発で変換されなかった。
やはり随分過去の映画なのだ。
作品は圧巻。北野武の才能の大きさを見せ付けられる。
細かいことをいえば、いらないカット、いらない台詞など、たくさんあるんだろうが、そういうことをいう人は、「人間が小さい」といわれてしまう。
スケールが大きい。芸術はつまるところスケール勝負なのだ。
気持ちよくて、帰りは、映画のラストで使われた音楽をハミングしながら、歩いた。足捌きが自然と、タップっぽくなっていた。



2003年9月28日(日)

遅れに遅れていた、「神鷲は死なない」の初稿が書き上がる。
140枚。ここから書き足すことがいくつかあるので、二稿目は160枚前後か。
稽古初日(10月7日)には何とか間に合いそうだ。だが、戯曲を書くといつもそうだが、もう何もしたくない。



2003年9月8日(月)

哲也打ち合わせ終了後、「文芸別冊 色川武大 阿佐田哲也」(河出書房新社)のインタビューを受ける。10月に出るらしい。
なんとカメラマンは、ドリブ(青人社)で一緒に仕事をした、清水啓二さん。清水さんとは、よく武智鉄二さんの話をしたものだ。懐かしい。今は、川出の仕事が中心らしい。
最初、名前が思い出せなかった。そのくらい久しぶりだった。
清水さんとは、インタビュー終了後、徳間に行った清野さん(元ドリブ編集長)、フリーになった羽柴さん(元副編)の話をする。
河出の、編集・須川さんは、元青土社だった人。俺が「フィリッピンの民話」(青土社)を訳したのを覚えていてくれた。本が出た頃は、青土社に居たらしい。
俺の担当・坂上さんは、今花火屋さんの跡継ぎと結婚し、編集から足を洗ったらしい。頭のいい人だったから、編集をやめるのはもったいないな。
で、驚いたのが、ライターの松本さん。俺の話を、速記で書き取っていた。感動的な光景。俺は、この世界は長いが、自分の話を速記で書き取られたのは初めての体験だった。



2003年9月1日(月)

昼、12月公演「神鷲は死なない」のプロット作り。パブリシティ用の写真が上がってくる。予想外にいい出来。役者さんもカメラマンの熊さんも頑張ってくれている。
夜、哲也の下打ち。来年二月に、哲也版の麻雀指南書が出る企画が持ち上がってくる。面白そうだ。



2003年8月31日(日)

西荻窪で倉持一裕が出演する「心日庵」の芝居を見る。
優れた俳優集団だが、自分たちで作・演出をした分、まとまり、インパクトに欠けるものだった。
俳優集団にはよくこういう現象が起きる。
いい作家・演出家がいない。ならば、自分達で。
先ず、自分達が楽しまなくては、観客も楽しめないではないか。
そんな思いから舞台が生まれる。
が、船頭多くして船がどちらに進んでいるかわからないものになる傾向がある。
また、倉持さん達の教え子がたくさん出ていた。
あれだけ教え子が出ると、自分達が泥にまみれる姿を見せられなくなるな。

泥にまみれられなくなると、表現者としてはきついな。
だが、泥にまみれ続けているのもしんどい。
どっちもしんどい。

夜、バンチの編集・三枝。サイビズの編集顧問・亀山さんと渋谷で呑む。
亀山さん、川崎競輪で連戦し、勝ったらしい。
亀山さんが、「噂」の創刊当時の編集だったことを、初めて聞いた。
全盛時の梶山季之に、入れ込んでいた亀山さんの姿が目に浮かぶ。
「噂」は、ずっと編集長(何とかゴロウさん……名前を忘れた)、亀山さん、川上信定さんの三人で編集していたらしい。
川上さんは、亀山さんより、後からの入社だったらしい。
しばらく、川上信定論になる。(作家と編集の違い、という話なのだが)

そういえば、亀山さんが、デビュー当時の藤沢周平さんに原稿を貰いに行ったときの話も面白かったな。デビューした時、既に大家だったという話。
藤沢周平さんは、文化庁で賞を貰った時に、初めてその姿を拝見した。
腰の低い方だった。スーツもあまり、高そうなものではなかったような気がする。
記者に、愛されている風だった。15年も前のことだ。

俺が、アシスタントの片桐に聞いた話をしたら、三枝が面白がって、俺がマンガに使ってもいいですか、と聞いてきた。もちろん、いい、と答えた。
以下、片桐に聞いた話――。
50代の男が30歳年下の女性(20歳ぐらい)と不倫をした。
相手の父親が、「うちに来い」と怒鳴るので、恐る恐る行ったら、
いきなり、指を詰められた――。
実話だけの持つ迫力だな。
「清水ちなみとOL100人委員会」では、集められないネタだ。
実際は、明るくない不倫もたくさんあるはずだ。

日本国民中、1000人に一人は、暴力団員である。
不倫をしている人が1000人いれば、うち一人は、暴力団員の娘に当たる可能性はある。小指ぐらいは、覚悟しなければならないかもな。



2003年8月29日(金)

週刊金曜日のコラム「本のひろば」の二回目の校正をファクシミリで送る。
半ページのコラムとはいえ、9週間連続で週刊誌をやると、時間に追われるという意味では、真剣にならざるを得ない。
何しろ、既に週刊誌を一本抱えている身だから。
15年近く前だったろうか、東京中日スポーツにインタビュー記事を毎週一本入れるという仕事をしたことがある。
その仕事だけに追い回され、結局、3ヶ月ほどで、白旗を揚げてしまった。
それほど、私は「急ぎの仕事」に弱い体質だった。
それが、短期間とはいえ週刊誌二本同時だもの。タフになったな。
というより、もっとできそうな気がしている。(単純に働き盛りとは、こういう状態のことなのだろうか)
金曜日では、戦中戦後を扱った本ばかりを、取り上げることにしたが、実は、ここ数年、私の書棚は、その頃の本がかなり増えてしまった。(俺の中にも、書くストックがたくさんあるということかも)
マンガも戯曲も、その辺りばかりを書いているからだ。
物語作りという観点から見ると、日本はその辺りまでが最も面白い、といえなくもない。
作家である以上、現代を描きたい気持ちはある。資質によっては、現代を描いた方がいい人もいる。
だが、私の今の方法では、現代はやりにくい。エンターテインメントだから、現代を物語の面白さ優先で描くと、「踊る大捜査線2」のように突っ込みどころ満載の作品になる可能性が大きい。
マンガに関しては、いくつか秘策があるので、来年からそれを試してみたい。



2003年8月28日(木)

昨日、今日と「日本マンガ塾」で原作の講義をやった。で、打ち上げの意味もあって、学生達と恵比寿で呑んだ。
漫画家になりたい人は、先ず絵を描くことが好きなのだ。
だが、話が面白くなくては、面白いマンガは描けない。
で、物語つくりで苦しむらしい。
彼らにとって、絵を描くことは、ストレスの解消にもなるほど、楽しいことなのだ。だが、物語を作っていると、ストレスがたまるらしい。
今でも、物語作りでのた打ち回っている私が、人のことに構う余裕はないのだが、
それでも、私のアドバイスは学生にとっては、有効らしい。
私の力が、社会の役に立つのだな、と実感できて嬉しい。



2003年8月21日(木)

今年は、お盆返上で戯曲を書いていた。(と入ってもお盆は例年戯曲を書く時期と決まっているが)
今年は、劇団民藝用に書いた。題は残念だがここには記せない。
どっしりしたものを、書くと精神の芯が疲れる。
それも、書きあがると心地よい。



2003年8月18日(月)

週刊金曜日の「本のひろば」というコーナーを9月から、9週間持つことになった。本に関するエッセイなら、何でもいい由。
金曜日は創刊当時から読んでいる雑誌。
私は、戦中戦後を扱った作品作りで、出会った本を取り上げることした。
今日は一回目の原稿を入れる日。なかなかスタンスが、決まらなかった。
7、8回書き直した。
ここ数年、軟派な雑誌ばかり書いているからな。仕方がないか。



2003年4月2日(水)

少年マガジンの、「大牟田・白水」編が終わる。
最終ページに、ゴールデン・ウイーク合併号から、「賭博師・梟」の連載開始の告知が出る。
今まで、極秘で進められていたが、やっと口に出せる。
星野さんとの、二つ目の仕事だ。
哲也より、博奕の色が濃い。
自信作ではあるが、読者がどんな反応をするかは、ふたを開けてみるまでわからない。
哲也を、中断しての、短期集中連載である。
星野さんのネーム・絵ともに切れている。
読者の心を掴まえてくれ、と祈る。
泣いても笑っても、あと二週だ。



2003年3月29日(土)

平石耕一の「センポ・スギハアラ」を観るために、ソウルに行く。
戦争をやっているためか、空港は空いていた。
1940年のリトアニアで、6000人のユダヤ人の命を救うために、外務省の反対を押しきってビザを発行した外交官の物語だ。
上演したのは劇団銅鑼。
日本語を同時通訳で韓国人が観る。
デモがあちらこちらであり、観劇者が少ないのだと、現地の主催者。
韓国人の反応が良かった。先ずそれに驚いた。
1940年――。その同じ年に、もっと多くの韓国人が戦争の犠牲になっているかも知れないのだ。同じ、日本が当事国の戦争で。
芝居が跳ねて、10名超の韓国の40代の学者達と話し合う。
中心は、政治学者・経済学者。演劇・社会学も混ざっている。
彼らは、東北アジアを、一つながりで考えることは出来ないかと模索している。
ユーロのようなイメージではないか、と思う。
今、日本で、そんなスケールでものを考える意見が出るだろうか。
アジアの時代とはいうが、空論ばかりである。
だが、東北アジアというのは、実現性が高いかもしれないと思った。
今は、社会主義国二つ、資本主義国三つという、やりずらい形に見えるが、
やってみると、やり易い部分もあると思う。
彼らは、そこに目を付けている。
韓国人だから、わかることなのだ。
日本人では、そんなことはいえない。
大東亜共栄圏のことがあるからな。
期せずして(当然というべきか)、平石耕一、私、韓国人学者の間で、安重根の話になった。
韓国は、当時、日本の大東亜共栄圏に乗っかったらしいんだな。
で、裏切られたから余計、憎んでいるとのこと。
彼らはその辺りの心情を、理性的に語って聞かせてくれた。
理性的に話すと、韓国人の学者は、アジアでもっとも日本人と通じ易い人々のように感じた。
「明日咲く」の書き換えをしなくては、という決意を新たにする。



2003年3月27日(木)

5月公演の戯曲「明日咲く」を直しを考えている。
「明日咲く」は特攻を取り上げた戯曲。
武器とは、本来、相手を倒すため、自分の身を守るために作られたものである。
自分が確実に死ぬ特攻という武器。
その不条理。
大義だけで、正当化できるはずがない、とも思う。
では、特攻とは何なのだ。一度戯曲は書いたが、自分なりに、もう一度考え直したい。
いま、中東で行われている戦争。
イラク兵は、死ぬかもしれないという恐怖を抱えて戦っている。
米英の兵士は、自分が死ぬ可能性が限りなく0に近い数字で、出征したはずだ。
その不条理。
まともに考えたら、戦争ではない。
では、何なのだ。



2003年3月26日(水)

4月17日に、哲也の31巻と共に出る「哲也・勝負の鉄則」(講談社)の青焼きを直す。
ガイド・ブックの変形だが、私の「運の理論」を、哲也の成長に沿って解説した本だ。
草野真一というライターの方が構成してくれたのだが、私が書いた本よりわかり易い。
自分の考えを、客観的に眺めるとこうなるのか、というのがわかって楽しかった。
本自体も、哲也の絵がたくさん入っているので、楽しい。
ありがたい本の企画を考えてくださったものだ。
勝負師の哲学と、老荘思想の両方を眺めながら、自分の運に対する考え方が発酵していった頃のことを思い出した。



2003年2月20日(木)

本当に長い間、放浪日記を休んでしまった。
「賭博師・梟」の本番が終わって、少し気持ちに余裕ができた。
芝居は連日満員で、見てくださったお客様には「ありがとう」というほかない。
切符が早くから、売り切れたので、観たいというお客様をお断りする状態が続いた。
「立ち見覚悟で来た」というお客様を、本当に立ち見にしてしまうのが、申し訳なかった。

俺自身は、今年に入って、自分の時間が殆どない状態が続いている。
今は、「賭博師・梟」が週刊少年マガジンで漫画化されるので、そのアイデアを考えている。
神の立場で俯瞰して観るのが、「梟」という芝居の特徴だ。これを漫画にするには、時間を直線的に切り取らなければならない。ドラマツルギーを根本から変えなければならない。
一方で、哲也の「三池炭鉱編」の、次のプロット作りを進めている。(場所は秘密)
また、四月には講談社から「哲也・勝負の鉄則(仮題)」という本が出る。哲也の成長に合わせて、俺の「運の理論」をわかりやすく解説する本だ。
その追い込みが全て今月である。
三月二日には、筑後市民ミュージカルの公開リハーサルがあるので、それに向かって、脚本の直し。芝居のタイトルは、「彼方へ、流れの彼方へ」。
原作は滝口康彦の「千間土居」。武士道がテーマの小説を、ミュージカルに仕立てる。
困難な作業だったが、何とか完成に近づきつつある。
それが終われば、楽になる。
もう少し、放浪日記が書けるだろう。

芝居の千秋楽の次の日、こんなことがあった。
うちのミスで、千秋楽の日に照明のバラシができなかった。
次の日の別の劇団の、仕込が始まる前に、バラさなければならなくなった。
朝7時から、9時までの間にやるのである。
今回、頼んだ照明家の野中千絵さんは、沖野隆一さんの元で10年働き、うちの千秋楽の日に、独立した。沖野さんに、しごかれた人だ。オペもうまい。
独立しても、沖野さんと一緒に仕事をする場面は多いだろう。
だが、沖野さんにとっては、手塩にかけた弟子が去っていく日である。
バラシの人員が足りなかったのか、沖野さんが自らバラシに来た。
朝7時である。
いい師匠だな、と思う。
制作の吉田は、沖野さんにミスを叱られたらしいが、俺はそのお陰で、沖野さんという人を、信じられる人だなと思えるようになった。



2003年1月4日(土)

「主婦の友」社の村田耕一さんからの年賀状を見ながら、しばらく考えた。
文面にはこうある。題は「知命」。
「孔子の有名な『五十にして、天命を知る」というものですが、この命というのは、孔子が自分の天命を知り、確信を持って行動に入ったということだと思っておりました。ところが、今年五十になるので、二、三調べましたら、『人間の遭遇する吉凶禍福は避けがたいものだということを悟った』という意味もあるようです。確かに、五十ともなれば、昔からの友人を失ったりし、命のあることの意味を知るような年回りなのかと実感します。皆様にありましても、命のよろこびを感ずることの多い一年でありますように」
新年早々、こういう気付きを得て、今年は良い年なのかもしれない。
「五十にして、天命を知る」――。子供の頃に、何も考えずに記憶してしまった言葉だから、疑わなかった。「天命を知り、確信を持って行動するもの」だとばかり思っていた。だが、冷静に考えて見れば、孔子が「わからないもの」を「わかる」というはずがないのである。
五十歳近くになると、吉凶禍福にもわかる部分が増えてくる。一方で、人間の力の到底及ばない部分が広大にあることを知らされる。それを知った上で、自分の判断の及ぶ範囲では、確信を持って行動しなければならない、そのしんどい状態を引き受けるのが五十歳頃なのだ。
孔子は秀才だったから、四十代ぐらいまでは、あがいたんだろうな。何とかわかる部分を増やそうとした。あがいてあがいて、結局、観念したんだな。だが、諦念だけに留まらない。諦念と自信をセットにした。(それが孔子の流儀だし、「四十にして立つ」の後だし)
四十代で行動を起こす。何度も何度も軌道修正を強いられる。詰まるところ、わからない。「問い続けるほかないのか」と観念し、「問い続けることが使命だったのか」と悟り、その手応えも自信の一つといってもいいのではないか、と考えた。(これは間違っているかもしれない……孔子っぽくないからな)
人間は、自然や制度に振り回されながら、右往左往生きる。この原則は変えようがない。にもかかわらず、人間が生きる上で、自信ないし手応えは必要である。特に五十歳ともなれば、成人した人間から見ても、大人である必要があるし。
それをどうやって克服するのか――。
で、ここからが私の気付きなのだが……。
孔子は「つっかえ棒のない状態」を「天命」としたんだな。人間は、つっかえ棒のある状態から、つっかえ棒のない状態に向かって成長する。
で、「つっかえ棒のないまま、確信のある状態。それでいて頑固ではなく状況に応じて柔軟に変化できる精神を身につけること」を孔子は五十代に求めているんじゃないか、というのが今年最初の気付きである。



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