放浪日記2002

筆・さいふうめい


2002年12月20日(金)

ヤングジャンプのマンガ原作部門で、弟子の谷津弘幸が、準入選に入る。
入選は出ていないので、準入選は、実質一番上ということになる。賞金は70万円。
これは「哲也」の星野さんが、マガジンで入選した時と、同じ額である。
谷津、ついにやったな。
感慨もひとしお。
谷津は、俺の参謀としては優秀だが、自分一国で書くとなった場合、果たして、物書きに合っているといえるだろうか、商売替えをした方が、彼の将来のためではないかと、何度も思った。
俺が制作の哲子に相談しては、「大丈夫です。いいところもいっぱいありますから」と説得されてきた。弱いな。
賞をとったからと言って、物書きとして一国だとは言えないが、とりあえずは嬉しい。
演劇、物書き、いずれも商売替えをした方が、ほとんどの人にとって、安定的に生きられるのだ。フリーランサーにとって、才能より、自律の精神を維持することの方が、ずっとつらい人もいる。
賞を獲るより、一人一国を、自律的に、生き続ける方が、ずっと難しいといえるだろう。
一方で、阿波が「近代麻雀」で連載している「剣師」が、コミックになることが決まった。
うちの単行本第一号は、阿波である。
うちも活気付いてきたな。



2002年12月18日(水)

来年2月公演用の戯曲・「賭博師・梟」が書き上がる。
24日の稽古初日に、チラシ・戯曲とも間に合った。
書き上がると、いつもそうだが、これ以上の作品はもう書けない、と思う。
テーマは、男の友情だ。
男が男を信じられると、女もその信頼に自分を託すことができるのではないか。
随分、古風な見立てだが、敗戦後の極限状況で、それを舞台化すると、成立するのではないかと思っている。
明日からは、5月に、津上忠、平石耕一、俺の三人で、三本立ての芝居の戯曲に入る。
企画全体のテーマは「戦争と日本人」。俺は第二次世界大戦の特攻を取り上げる。
タイトルは「明日咲く」。1945年8月14日の夜のことだ。明朝、出発する四人の特攻隊員のドラマだ。燃料が届かないため、誰か一人が、残らなければならなくなるというのが、物語の入り口だ。
音楽は、ジャズで行きたい。俺好みの話だ。



2002年10月3日(木)

末期がんと闘っていた義弟・博が遂に力尽きる。まだ、44歳の若さだった。
末期の肺がん、これが脊髄と脳に転移。余命一ヶ月。そう診断されたのが、7月の初めだった。
三ヶ月闘ったことになる。壮絶な闘病だった。生活でも、仕事でも本当に我慢強い男だった。
だが、無念だ。
博は、二年前から肩の痛みを訴えていた。幾度となく、病院を変えて、診察を受けたが、どこでも異常なしとのこと。
博は「痛くて痛くて我慢できないんです」と医師に訴えた。だが、「異常なし」ばかり。それが2年続いた。
ある時、博がアスピリンを6錠まとめて飲むのを見た。俺は「多すぎないか」と訊いた。
博は「僕はアスピリンが効かない体質なんです」と誤魔化した。それは、俺に心配かけないための配慮だった。痛くて堪らなかったのだ。
昨年暮れ、結局痛みに耐えられなくて、会社を辞めた。原因不明の痛みに、なす術もなく、ただアスピリンで痛みを堪えるのみ。
博と私の妹(博の妻)は薬剤師同士である。近代医学を基本的に信用している。
色んな検査を受けたのだが、白血球の数字が変わらなかったのだという。本人も、白血球が正常値なのだから、「がんではないようだ」と思っていた。
白血球の数字が変わらないまま、ステージ4まで悪化するがんがあるなら、もっとそれを公にして欲しい。
痛みに耐えられなかったのは、骨髄で、そこは肺がんからの転移なのである。肺がんは、痛みはなくても、ステージ4だから、かなり前から悪かった可能性が高い。
いくら進行がんでも、自覚症状が2年も前からあったのである。
本当にわからなかったのか――。悔しい。納得がいかない。博は、末期がんと闘う物凄い体力と精神力を持っていた。2年前なら、何とか闘えたはずである。
肩甲骨の裏側で、見つけにくい場所だった、という説明。だが、入院した時、その医師は、「骨が半分溶けていて、動かせない状態」ともいった。ここも納得がいかない。

痛みに耐えられなくて、モルヒネの量だけが、どんどん増えていく。モルヒネは副作用が強くない薬だが、増やしすぎれば副作用は出てくる。自分にうたれる量が、どれほどの量で、それが身体に与える副作用の強さを、博は知っている。しんどかったろうと思う。
放射線が効かなかったので、最後は、私と妹が頼み込んで打ってもらった「丸山ワクチン」のみが頼り。国立病院だから、丸山ワクチンは普通は使わない。医師によっては「水のようなもの」だと思っている。
闘病一ヵ月後、医師は「何故だかわからないが、がんの進行が止まっている」と診断。「何故だかわからないが」という一節が、何度も胸の中でこだまする。病院でやっているのは、痛み止めのモルヒネだけなのである。治療法がないのだから、仕方がない、という理屈だ。で、頼み込んで、丸山ワクチンの注射だけはやって貰った。
「何故だかわからないが」といってもいいのか――。

が、進行が止まったことに、小さな光を感じた。
しかし、それも苦しい日々を長びかせただけかもしれない。本当のことはわからない。
俺たちは、生きている人間の側から、生の尊さを考える他ない。
博は、幾つも幾つもの病院で検査した。痛みの場所も明確に医師に伝えていた。
「なんともありません」といった医師の顔を、何度も思い出したことだろう。

俺はかつて、腱鞘炎で腕が痛くて、鉛筆を持てなくなったことがある。精神的な影響もあったが、痛みで手が動かせない状態だった。
最後は、腱鞘炎ということだったが、二つほどの病院で、「どこも悪くありません」という診断。
うち一人の医師は、「鉛筆を持てば、誰だって手は痛くなりますよ」と軽くいった。それで俺を説得できると思ったのである。俺は、「痛くて痛くて、動かせない状態なのだ」といったのである。鉛筆を長い時間持って痛くなるレベルと、その違いが説明できない人間に見えたのか。だが、俺の「叫び」をその医師は聞こうとしなかった。俺は、その医師の顔と、そのセリフをいった時の言葉の抑揚を今でも覚えている。私が出会った中での、「最低の人間」の一人である。
博の胸にも、何人もの医師の顔がよぎったのではないか。

医師にしてみれば、「一々心の声を聞いていたのではもたない」のだろう。
もちろん、膨大な数の「困ったさん」を相手にしているのだから、麻痺していくのもわかる。
だが、命の尊さに向き合う仕事なのだ。

博の死には、納得がいかない。無念だ。
だが、博の死は受け入れる他ない。つらい。
心から、冥福を祈る。
よく頑張ってくれた。妹を大事にしてくれた。
合掌。



2002年9月27日(金)

「近代麻雀」(竹書房)で、「剣師」の連載をやっている阿波天奈が、連載継続だという。よかった。
阿波は、うちの事務所から出た最初の、連載作品を持つ原作者。
デビュー作の「剣師」の人気が今一つで、打ち切りになるかもしれないと聞かされていた。
三ヶ月続き、ここが土俵際だったが、これからは月一連載になる由。月一でも、新人
には大変なんだよ。
阿波には、しばらく麻雀漫画の原作で、トリックの強みを発揮してもらいたい。
今、原作部門の弟子が歴代4人。最初の弟子・松下則正が「ゴラク]でデビューした
ことはすでに記した。
阿波が連載が起動に乗りつつある。
谷津が連載準備中だから、後は、片桐だけだ。片桐には、夜呑みながら「渇」を入れる。
(「ちゃんとやれ」と言っただけだが)
多分、やってくれるだろう。
全員デビューとなれば、うちは漫画原作の梁山泊になるのではないか。
それとは別に、最初の弟子・三枝が、いまコミックバンチで編集をしているから、
それも入れると、かなり強力な布陣だ。

とはいっても、厳しい目で、弟子は選んでいる。
特別の才能は要らないが、潜在力、人間性は十分に吟味する。
面接をやった人のうち、三〇人に一人ぐらいが残っている感じか。
うちは入るだけでも厳しい。その厳しさは失いたくない。俺が軟弱にならないことが大事だ。



2002年9月22日(日)

会社で、経理と制作をやってくれている内野哲子(旧姓・山田)の結婚式に出る。
場所は、新幹線で名古屋から一つ手前の三河安城。
初めて降りた駅だ。駅前には、コンビニがひとつあるきりで、ファースト・フードの店もない。
ホテルがいくつか建っているが、開けた感じはない。
国会議員が強引に作った駅だったと記憶するが、三〇年経っても、その強引な感じのままと言うのは珍しいかも。
哲子との付き合いは、もう10年になる。
専門学校の教え子で、私が演出する芝居に三本出てくれ、最近では、経理・制作の社員として働いてくれた。
娘が嫁に行くようで、嬉しさ半分、寂しさ半分。
経理の社員が、これからSOHO社員として、愛知在住になるので、社長としては、「困ったな」という気持ちが更に半分。
よく頑張ってくれたな、と思う。
これからもSOHO社員として、会社に貢献してくれることを祈る。

縁と言うのは、不思議だな。
「専門学校の教え子の中でいいのはいないか」と、学事長に劇団の手伝いを一人頼んだ。
ある生徒が駄目で、その二番手として哲子が選ばれた。
会社の前任の経理が辞めるとき、誰にしようかと言う話しになり、ある人が候補に上がったが、その人が駄目で、二番手として哲子が候補に挙がった。哲子に、電話をかけると、ちょうど「経理を勉強したかった」という話。
それで、哲子になった。
そうやって10年続いた。これからも続く。
新郎は、司法書士の資格を目指して勉強中の人。
野球チームには入っているわ、バドミントン・サークルには入っているわ、宴会好きでカラオケ好きという多趣味の人だ。
退屈はしないだろう。
が、堅実そうでちゃんとやってくれそうだと思った。
いい夫婦になるだろう。



2002年8月29日(木)

昨夜、俺の弟分で、今はコミックバンチの編集をしている、三枝と新宿を歩く。
とんでもない光景を目にする。
夜10時ごろ。丸の内線から伊勢丹に抜ける地下道を歩く人がパラパラしかいないの だ。
いくら水曜日でも、月末なのだ。人が全然出ていない。その時は、一時的状態かもし れないと思う。
少し、バーでのみ、帰りは靖国通りを新宿に向かって歩いた。11時ごろである。
往時の三分の一か四分の一しか人が出ていない。私のイメージなら、夜2時ごろの人の出である。
アルタの前にも、パラパラしかいない。 かつてなら、人でいっぱいだったのに。
ここ数ヶ月の現象だ。三枝と、不況の影響だろうな、と意見が一致する。
新聞はこの異常状況を何故報じないのか。
もちろん、街が本来あるべき、まともな状態に戻ったと言えなくもないが、
これは「経済の異変」であるのだ。
変化を肌で感じたかったら、一度新宿を見るべきだ。
TOPIXや株価指数より、はるかに日本経済の状況がわかるはずだ。



2002年8月26日(月)

札幌の郊外「大倉山ジャンプ場」を見学。
雪はないが、実際に、選手が飛ぶのを見る。
引力を考えれば当然だが、真下に落ちていく感覚だ。
脚力を競うというより、どれだけ恐怖心と闘えるかという競技かもしれない。
上からは、自分が飛び降りる「面」が見えないのだ。(斜面が「斜め」というより「縦」だからだ)
そこに向かって飛ぶ競技を考えたノルウェー人っていうのも、面白い民族だ。
ビール園で、ジンギスカンを食べる。
今は、サッポロ以外に、アサヒ、キリンのビール園があるらしい。
が、地元の人にいわせると、新興二社は振るわないらしい。ビールの味は、そんなに違わないだろう。タクシーの運転手によると、肉の味が違うという。
サッポロも生ラムを使ってはいた(冷凍肉はおいしくない)が、ニュージーランドからの輸入肉だった。もちろん、美味かったが。
北海道は、食用の羊を買っているという話だったが、やはり国内産は、高級店に回るのだろう。
しかし、食用の羊を飼うという習慣を持っているのは、日本では北海道だけかもしれない。
逆に、何故、それ以外では、ラムを生産しないのか、という疑問が湧いた。



2002年8月25日(日)

札幌に移動。
JASMAC HOTELに泊まる。
札幌では二度目だ。
札幌の市内に、本物の温泉が出るのだ。
泉質は、一級というわけには行かないが、実は、相当いいのだ。
市内で、これほどの泉質が維持できるのなら、札幌はもっと再開発できるのではないか。ホテルだが、浴衣で歩けるし、温泉も豊富に湧いている。
盲点のようなホテルだ。
ただ、大広間で、田舎の旅館のような感じで朝飯を食べる感覚を好まない人には難しいかもしれない。



2002年8月24日(土)

車で、根室に行く。北方領土を見る。
北方領土がなぜこじれてしまったのか。
もちろん、俺は日本の領土だと思っている。その場で、署名もしてきた。(署名をした人は5000万人を超えているのである!)
終戦前、ヤルタで、ルースベルトはスターリンに、北方領土をやると口約束をしたのである。ソ連参戦に向けた餌だった。その証人もいる。
ところが、日本が予想以上に早く降伏したので、アメリカの占領政策が混乱した。
ルーズベルトの口約束を知らなかった行政官が、上三分の一をソ連、下三分の二をアメリカが統治する、というプランを提示した。話が違うと、スターリンが怒って、北方領土を全部制圧してしまったようなのだ。
もちろん、その間の文書も調印もない。
ルーズベルトが口八丁で、スターリンがならず者なだけなのだ。
アメリカは、ソ連の理不尽を知っていたが、沖縄や佐世保など(南の守り)が忙しくて、というより、混乱していて、ほったらかしにしてしまった、というのがいきさつだ。
今ロシアはメロメロなのだから、もっと強気で行くべきじゃないかと、俺は思うけどな。
根室名物「エスカロップ」を食べる。根室では普通の喫茶店なら、どこでも食べられる。俺たちは、駅前の「ニュー・モンブラン」で食べる。その店が最初に(50年前)に始めたらしい。
タケノコを混ぜたバターライスに、とんかつを乗せ、デミグラスソースをかけたもの。
北海道では一本的でないタケノコがはいっているというのが、いいひねりである。
喫茶店の味だが、美味い。ここでしか食べれれれない味ではないが、ここでしか作っていないというのも、不思議な食べ物だ。
あとは、しおしおの「オランダせんべい」というのが根室の名物だ。こちらは食べていない。
北海道には、高速道路があまりない。その理由は、全ての道路が、本州の「有料道路」よりスムーズに走れるからだ。国道に「パイロット国道」などの「ニックネーム」が付いている。いいことだな、と思ったのだが、道内の人には受け入れられていないようだ。
JRが無理矢理作った「E電」のようなものか。



2002年8月23日(金)

今日から三泊四日で北海道取材。
俺に、星野さん、編集三人、アシスタントの谷津君の6人の大部隊である。
先ず、釧路に着いた。釧路湿原の川下りをする。
カヌーで下りたかったが、6人だったので、ボートにした。
釧路湿原はカヌーイストの聖地だそうだ。
静かな、川を流れに沿って、すべるように下っていく。
周りはどこまでも広がる湿原。音は、自分たちが櫓(本当はカタカナの名前があった)
から出るのみ。
俺好みのスポーツだ。
孤独になれる。自然と一体になれる。タイプは違うが、精神的には、ダイビングに近い、と見た。
俺は、青春期に神経症(今だから、その一種だということがわかるが)で苦しみ、自分が宇宙の一点に浮かんでいる感覚から逃れられなくなった。
俺の周りには、淋しくて、暗い世界しかなかった。
闇の底にたった一人取り残される孤独が「常態」だった。
俺にとっては、それが当たり前だから、「孤独」だとは思わなかった。
ただ、辛くて苦しかった。死んだ方が、楽だと思っていた。今でも、生への執着が強くないのは、その時のショックが尾を引いているからだ。
だが、その経験、客観的に見れば、恐ろしく孤独だったといってもいい。
今そのお陰で、何カ月も人と会わなくても、話をしなくても、淋しいとは思わない。多分。
逆に、孤独に強いともいえる。
「哲也」でドサ健が「孤独に強い男」として描かれているが、自分の体験が色濃く出ているキャラクターである。
あんなキャラクターは、ほかの作家では思い付かないのではないか、と思う。
死を見つめた時間が違うものな。人格が歪むぐらいしんどかった。
いつかは、その辺りの話も書かなくてはならなくなるだろう。(そんなものは売れないか)
釧路湿原は、俺に孤独を思い出させてくれた。また、来るだろう。



2002年8月17日(土)

10月に声優の野沢雅子さんが自分の劇団「ムーンライト」で演出してくれる「翼」の手直しをする。 「ムーンライト」は翼、二度目の上演である。一回目は、観客が飛躍的に増えた公演で、野沢さんも思いいれのある作品。今回は「ムーンライト・オリジナル版」と銘打って、公演してもらうため、全面的に改訂する。新作のつもりでやる。
腹話術の人形が出る作品だが、野沢さんが、いっこく堂さんと知り合いで、
いっこく堂さんが使っている人形の名前を使うことになった。 内容は、ウルトラマンが誕生する前後のテレビ企画マンの実話を元にしたパロディ作品。
若書きだったが、愛着のある作品だ。記念すべき上演になるかも知れない。



2002年8月6日(火)

三遊亭右紋師匠が、落語家仲間でジャズのバンドを組んで,その演奏があるので浅草園芸ホールに行った。
名前が知れているところでは、小遊三がトランペット、昇太がトロンボーンで加わっている。
去年も案内を頂いたのだが、一年越しだ。演奏の方は、洒落という感じ。
右紋師匠と、しばらく話す。「また噺作ってよ」と嬉しいことを言ってくれる。
新作落語も、時間が許せば書きたい。漫才や落語をしばらく書いていない。

収穫が一つ。講談の神田北陽が、今月真打になり、「山陽」を襲名するよし。
大きな名前だ。先代の山陽師匠には、インタビューをした。芸に財を注ぎ込んだ芸人だ。
北陽の、講談はいい。化けるかも、と思っているのは私だけではないだろう。しばらく、要チェックの芸人だ。



2002年8月1日(木)

九州大谷短大で集中講義を終えて、久留米競輪に寄る。
我が、人生の師の一人である藤田博史のレースがあるからだ。
藤田さんは、久留米競輪二番目の長老。50歳の現役だ。

己の欲望のままに生き、反省をしないで生きていける数少ない人だ。
そうやって生きている人は多いが、藤田さんは、インテリなのである。
インテリで、そのタイプは他に見ない。藤田さんの、懲りなさ加減は、やはりここには記せない。

私が「偉大」と思えるレベルである。
藤田さん、今節は、三着、四着と来ての最終日。期待薄な感じだったが、これは「賭け」ではない。
応援なのだ。少しばかり張り込む。藤田さん、残念にも、5着ぐらいだったか。確定前に、競輪場を後にする。
藤田さんが、1着に入れば、琥珀亭(久留米の喫茶店)のママに久留米絣をプレゼントする約束だった。
が、オッズがすごすぎて、もし1着なら大島にも手が届く勢いだった。ママも残念。



2002年7月27日(土)

恵比寿にある「日本マンガ塾」で、三日間マンガ原作の集中講義をする。
マンガ原作の講座は、どこかのカルチャースクールに一箇所あるだけで、他にはないらしい。
昼間部、12名。夜間部16名が受講してくれた。生徒は熱心で、成功したように思 う。
講座内容は、全くオリジナルで作った。他所にない内容で話すというのは気持ちがいい。
春と、夏の二回、集中でやることになりそうだ。今回、受けた人がほとんど、
次の段階も受けたいと言っている由。気を良くした。

これを元に、「マンガ原作術」の本を書こうかと思っている。内容には自信が持ててきた。



2002年6月28日(金)

講談社漫画賞の授賞式があるので、赤坂プリンスに行く。
今年の少年部門は、「魁、クロマティ高校」が受賞した。作者は、野中英次さん。
二次会で初めて話したが、脱力系の話し方をする人だ。本人の話し振りと、漫画の間が殆ど一致している。感動した。
言文一致という言葉があるが、野中さんは、言漫一致である。
乾杯の音頭は、編集会議でただ一人「クロマティ」の連載に反対した編集が指名された。すごい人選。
それにしても、反対したのがたった一人とうのは、微妙だ。反対も賛成もしにくい漫画だよな。「ヨミ」が外れたら、センスを疑われるしな。
かといって、「ヨミ」が絶対当たるといいきれる人もいないだろうし。
殆どの人は、なんにも言えなかったんだろうな。
担当者が強く押し、その日たまたまイライラしてる人が、強く反対したというだけではないかと察する。
抽選の景品プレゼントがあった。野内編集長が鋭く指摘したのだが、今年は強運の人がいい景品を貰っていた。
面白い現象だった。不条理の世界では、運に左右される度合いが高い。ちょっとしたシンクロだが、私には面白い一瞬だった。野内編集長はそういうことに、敏感な人だった。



2002年6月26日(水)

ヤングマガジン・アッパーズで「バサラ」の担当をしてくれた、宇佐田正彰さんが、編集を離れて管理部門に行くことになったので、ささやかな「送る会」を新宿でやった。
バサラは日本では、あまり売れなかったが、韓国では人気だった。コミックは多分、日本より売れているだろう。韓国向きのまんがだったのだろう。
宇佐田さんと付き合って、根気強い編集とはこういう事を言うのだろうな、と思った。投げないというのは力だな。
最後は、キャバクラで締めた。宇佐田さん好みの店を見つけておいてよかった。キャバクラは「外見より気立て」という私の説を、宇佐田さんも強く支持してくれた。
気持ちが通じ合ったと思う。
一方、宇佐田さんの後輩、塩崎(編集)は「キャバクラは忍耐力を鍛える場で、キャバクラ嬢との議論力を磨く場」だと理解しているようだ。
この後輩を残して現場を離れるのは、宇佐田さんも辛かろうと思う。



2002年6月14日(金)

ワールド・カップ日本代表がチュニジアに勝って、決勝進出を決めた。
森島起用というトルシエ監督の読みが当たった。いい読みをしている。私には、森島のバイブレーションを読む力がなかった。
以前から、トルシエ監督は、人間のバイブレーションの読みのいい人だと思っていた。
鈴木みたいな選手は、岡田前監督なら使わないだろうという気がする。案の上、鈴木は活躍した。
森島を使ったのは、麻雀で言うなら、リャンメン待ちを嫌って、カンチャンを残すような戦術である。考えて考えて、カンチャンで待つほうが有効だ、と判断したように思う。で、結局、カンチャンが入った感じだ。
その采配を、久米宏が「さすがです」みたいなことを言った。久米宏という人は、「リャンメンの方が確率がいいのだからリャンメンで待つべきだ」という常識論を信じている人のように思っていた。基本的にはそうだろう。
だが、普通の人に思いつくような、つまり、記者や評論家やファンから理解されるような戦術をとる人には、高い金を払う必要がないのである。
普通の人が思いもつかないようなカンチャン待ちを残して、誰もが残すであろうリャンメン待ちを切る。そして、その読みが当たるから、プロなのではないか。高い金を貰う資格があるのではないか。
私は久米宏という人には、というより、解説をしている、岡田前監督や、加藤久には、トルシエの采配の核の部分が殆どわかっていないような気がする。
今回の日本代表で、予選リーグを勝ち抜くことはそんな簡単なことではないだろう。久米宏や岡田前監督や加藤久が理解できる部分で、強化し、戦って、今回の結果が出たろうか。
もちろん俺には、サッカーの深い部分はわからない。だが、トルシエが人間のどの部分を見て、選手起用をしているのかは、なんとなくわかる。
トルシエは、どうやってまさかという状態を作るのか、ただそれだけを考えつづけたのである。もちろん本人に訊いても、そうは答えないだろうが。世論を敵に回してしまうからな。俺だって、HPでなければ、こういうことは書けない。やばい話だから。
トルシエは、人間のバイブレーションに忠実にやっている。多分、トルシエのその部分を理解している人は、あまりいないのではあるまいか。
トルシエもやがては、読みが外れ続ける時が来る。人間だから、それは仕方がない。殆どの人は、そのとき「やっぱり駄目じゃないか。トルシエ、ざまあ見ろ」と石もて追うのだろう。そういう歴史が繰りかされてきたのだ。
夜、気分が良くなって、ビールを飲みながら久しぶりに吉田拓郎のレコードを聴いた。こんな一節があったことに、今さらながら気付いた。
「戦いつづける人の心を誰もがわかるなら、戦い続ける人の心ははあんなには燃えないだろう」

トルシエ、いい奴だな。あんたが矢尽き刀折れて、ぼろぼろになっても、俺はあんたは応援するぜ。



2002年6月12日(水)

韓国で160万部を売ったという「カシコギ」(サンマーク出版)を読む。
父と子の話だ。泣ける話だと思ったのだが、予想通り泣ける。
アジア映画で泣けるタイプの泣け方である。
ツボを押さえている小説。テーマと材料がきれいに混ざり、物語の運びもうまい。
日本なら、シナリオ・ライタータイプの才能の持ち主だろう。
韓国では、テレビドラマや芝居になったというが、俺の見立てではこれこそ漫画にした方がいい。
女流であまり叙情に流れない絵を描く人が漫画にしたら、いい話だと思った。



2002年6月11日(火)

映画「少林サッカー」を観る。
日本の少年漫画という滋養を一杯に摂って作られた映画だ。
天晴れ。
若者に希望と自信を。みんなが笑える下らないギャグを。力を合わせることの尊さを。恥ずかしげもなくやっている。
演出もオーバーなら、音楽もこれ以上あるか、というほどオーバーだ。
映画が胸を打つのは、制作に関わった者達のハングリー精神だ。
日本の漫画でもう一度こういうことをやってみようかな、と思い始めた。



2002年6月7日(金)

玉井碧、神保共子、藤堂陽子の三女優と呑む。文学座でどういう芝居を書くかという打ち合わせである。
玉井さんと藤堂さんには、俺の芝居に出て貰っている。だが、台詞がなかなかできなくて苦労した経験がある。人物のリアリティができなくて、困ったのである。実は、普段その世代の女性と深く付き合っていないのである。だから、女性のつぶやきを知らない。女の陰口を知らない。詰まり、リアリティを持てる台詞、シチュエイションのツボが感覚的にわからないのである。最後は追い詰められて、なんとか書くことはできたが。
若い女の場合、自分が若い頃は若い女と付き合っていたから、「楽屋裏の言葉」を経験の中で積み重ねている。だから、いくつかのパターンもあるし、言葉もすっと出てくる。
話はいくつか巡り巡って、最終的に、時々呑むことにした。俺は書くことに追われすぎて、ちょっと気持ちが逃げていたように思う。
神保さんが、テアトル・エコーのある芝居に付いて、何度も熱く語ったことがある。それは、テアトル・エコーでもあまり、役の付かない女優さんたちが、自分でお金を貯めて、やったプロデュース公演である。登場人物は、おばさんが中心。週末に、サウナに集まって、世間話をするのが唯一の趣味という人たち。ある時、そのサウナは取り壊されることになる。おばさんたちは自分達の憩いの場所を守るために立ち上がる。結局、負ける。最後の場面、みんな素っ裸になって、サウナに飛び込むという趣向。女優達は、演技がうまいとはいえない、裸も美しいわけではない。だが、胸を打つ芝居だった、と。
神保さんは、心意気という言葉を使った。俺には意外だった。というより、根本的に彼女がわかっていなかった。文学座の女優はスマートさを好むと思っていた。
文学座の女優が俺に興味を持った理由は、恐らく趣向ではないのだ。
俺の「星に願いを」は下手な芝居だったが、今でもあっちこっちで上演されつづけている。その芝居には心意気が込められているからだ。下手でも、いいのだった。
最近は、トリックのことばかり考えすぎて、心意気がおろそかになっていたな。



2002年6月6日(木)

ジンテックの会長・内海勝統さんが、「出会う人みな、仕事の先生」(サンマーク出版)という本を出され、その出版記念パーティに出かける。本の中には、俺に関することがなんと7ページも割かれている。よく書いて頂いているのだが、顔から火が出るほど恥ずかしい。

有名な経営者と、ホームレスやねぎ屋のおばちゃんを並列に書いてあるところが、内海さんなのだ。

俺は、内海さんを「経団連の副会長になる人」とかつて言った。そのことを本に書いてある。もちろん、それはたとえ話だ。

トップになる人は、旗幟鮮明な方が多い。そういう方の多くは、時代の寵児とはなるが、時代が変化すると、時代とともに消えていく方が多い。もちろんそれも生き方である。それをいけないとは、微塵も思っていない。

で、内海さんは、旗幟鮮明にしない代わりに、時代に併せて変化し、生き続ける人なのだという気持ちで、「副会長」だと言ったのである。俺も、内海さんに経団連の副会長になってもらいたいわけではない。

同世代の経営者では、「ワタミフードサービス」の渡邊美樹社長と並んで、たまにしか会えないが、心が通じ合える経営者だ。内海さん、渡邊さんともに、俺の仕事の先生だ。(もっとたくさんいるが……)

パーティでは、懐かしい顔に何人も会えた。

ソフトバンク・インターネット局の松家一貴さん。彼がパソナ時代に知り合った。何年ぶりに会っても、すっとフィーリングがあった。いい空気を持っている人。松家さんは、サイビズの丸山社長と高校の同級で、サッカー部の仲間だったらしい。今さらながら知って面白かった。ソフトバンクのウェブに書くことを約束した。

サイバード副社長の真田哲弥。iモードコンテンツビジネスの雄だ。彼が、23歳でQ2コンテンツビジネスを始めた頃に知り合った。一回は数億の負債を背負いながら、見事にカムバック。しぶとさが顔ににじんで、いい顔をになっている。今は38歳だ。雑誌では何度か顔を見ていたが、会うのはひさしぶり。相変わらず、口が滑らか。自分でも、OS開発会社を始めたらしい。元気だな。

初めて会ってファンになったのが、ジンテック役員の友近忠至さん。サンリオの元専務だった方。最初は四国で、本屋の番頭さん。平凡社の百科事典の売り上げで、日本一になり、平凡社の役員。サンリオに平凡社が出資したとき、サンリオの専務になられた方。ずっとキティちゃんが、何故あれほど受けるのか、わからなかったのだが、友近さんと話をして、少しだけわかった。やっぱりキャラクターのデザインだけでは、なかったんだよな。それを作った人が、人を知っているんだよな。裏打ちしているものが違う。内海さんは、こういう人を役員に迎えるところが、技なんだよな。勉強になった。

サンマーク出版の編集・青木由美子さん。15歳ぐらい年上の俺を、普段は「小僧」とか「みなしご」とか呼んでいる人だ。多分、本気でそう思っているのだろう。だが、俺の書くものをいくつか覚えていてくれて、誉めてくれた。「なんだよ、なんだよ。面と向かって誉めてくれることもあるのか」……。意外な発見。

パーティは、いいバイブレーションが流れていた。内海さん、好調だな。

最近、書斎にこもる時間が多くなっているので、流れを変えたくなった。



2002年6月4日(火)

歯医者を代えたかった。歯医者は、どこに行ってもしつこい。あれも治そう、これも治そうという。医師の助言としては正しいのだろうが、気分が悪い。同じいうでも、さりげなく、気分よく「ここで治療しよう」という気持ちにさせてくれる言い方をして欲しい。歯医者は、歯の治療を学んだ人で、しゃべり方を学んだ人ではない。だから、それまでだといえばそれまでか。

だが、代えたかった。で、小田急線柿生駅前の、スーパーの二階に去年できた新しい歯医者に行ってみた。入った途端、いやな感じがした。客は一人もいなかった。受付で白衣を着た女性が、二人小声でひそひそと話していた。さらしのような布を触っていた。何か作業をしていたのであろう。

私は待つことなくすぐに治療してもらえた。予約もないのに。だが全然ラッキーな気はしなかった。平日の昼とはいえ、何故、こんなに閑散としているんだ。

私が診察台に座ると、後ろで、50代と思しい、男の歯科医師が奥の部屋から出てきた。診察台の私を待たせて、医師は二人の女性を叱り始めた。語尾が時々聞こえる。「〜しろ」「わかったか」「〜だろうが」……。低くこもった声だ。私にはっきり聞こえないように、小声で叱っているのだろう。

女性二人は、何度か返事をする。力のない、同意する気のない「はい」という声――。声が凍っている。それを聞きながら、俺は診察台で、段段凍ってきた。

俺は診察を始めた歯科医師の顔を見た。成田空港で捕まった北朝鮮のプリンス・金成男のような、雰囲気の風体顔立ちだ。もはや、絶望的な状況――。何とか逃げ帰る方法はないのか。

最初の工程だけは、我慢するか。決心した。

レントゲンを撮り、再び、診察台に座る。現像が終わるまで、女性のうち一人が、歯の掃除をする由。

女性は、営業用の笑顔で、「口をもっと大きく開けてください」「痛かったらいって下さい」などというが、目がすごんでいる。理不尽に歯科医師に怒られて、苛立っている。目の底に憎しみが宿っている。

先のとがった器具で、歯茎をゴリゴリと掃除してくれる。手の動きに思いやりがない。器具の先がグサグサ突き刺さってくる。痛い。相手を思いやる気持ちが少しでもあれば、こんな感じにはならないだろう。だが、イライラしながらやっているのだ。文句あるか、という気配が、器具の先に漂っている。

多分、医学のマニュアル的には「ちゃんとやっているのだ。何も文句を言われる筋合いはない」という手順なのだろう。

だが、診察台で口を開いている私は、ひたすら凍るのみだ。「痛い」と声にならない声で、一度止めてもらった。うがいをさせて貰った。何とか私の気持ちをわかってくれないか、と祈る気持ちだった。だが、その女性に私の気持ちを察する気配はない。自分のカリカリ・イライラで精一杯なのだ。さもありなん。で、最後まで、掃除をして貰った。「やっと終わった」と思った。

段々生きた気がしなくなった。

奥の部屋から出てきて、医師が、また私の歯を診察した。「こことこことここが悪いから、治療の必要があるというように」と言い残して、また奥の部屋に帰っていった。

イライラカリカリの女性は、私に治療の必要な個所をいちいち語り始めた。私は、いやそうな顔をした。「取り合えず今回は……」と言って、その場を去ろうとした。

イライラカリカリの女性は、「ちゃんとやらないとやがて大変なことになりますよ」と私にいう。本人は、病院で働く女性らしく、やさしく語っているイメージを持っている。だが、言葉の奥にトゲがあるから、聞くほうにすれば、恫喝に感じる。こっちもいやでいやで仕方がないから、いやな顔をする。それを見て、「この男むかつく」という感じが顔に出てくる。

外向きの顔から、地の顔が一瞬のぞく時ほど、女性が怖いことはない。俺はまた凍った。

この間、俺は診察台で、口を開いて、何も言うことができずに、先の尖った器具を口に突っ込まれたままなのだ。

で、取り合えず、第一段階だけは終わって診察代を払った。受付にいたもう一人の女性に、「もう来れないと思うんですけど」といった。
女性は「ああ、そうですか。わかりました」とあっさりと答えた。多分、一回で来なくなる人がたくさんいるのだ。受付の女性はそれに慣れているのだ。そう、慣れているのだ。

その歯科医院は医師と、治療をする女性のセッションで、ものすごい空気が出来上がっている。受付の女性は、「仕方がない」と感じている。もちろん、人間の作る社会だから、そういうことが起こるのは仕方がない。それが日常の職場で働けば、それが当たり前になる。

そんな中、私は、「来なくなることをわざわざいう、どちらかというとまともな人」と受け取って貰えたようだ。ささやかな救いはそれだった。

治療が終わっても、まっすぐ家に帰れなかった。しばらく、片平川で遊ぶ鴨の親子を眺めてから家路についた。



2002年5月11日(日)

博多に行き、野尻敏彦さんのご仏前にお線香をあげる。亡くなられてまだ、二ヶ月も経っていないと思っていた。だから、てっきり「ご霊前」だと思っていた。もう、百カ日も済んでいたのだ。あっというまだった。
野尻さんは「テアトルハカタ」を興し、博多に、演劇の種を蒔いた人だ。最初は、請われて「雇われて」演出家をやるために博多に来たらしい。だが、劇団を作る話になって、40代の頃だったろうか、博多に根を下ろす気になったらしい。
私が最初に会った頃「もうすぐ40です」といったら、「私は40を超えて、博多に来たのです。今からでも何でもできますよ」とおっしゃった。45歳になった今、本当にそうだと思う。
一度一緒にやりましょうという、約束は果たせなかった。生きていくと、遣り残した宿題がどんどん増えていく。
野尻さんを看取った上原恵子さんと話す。お葬式の日には、日本中から弟子が集まったそうだ。野尻さんは本当にいい仕事をなさった。
テアトルハカタは、女性の劇団員ばかりが10名足らず残っているだけだという。上原さんも、盟友の舞台監督・金森義輝も、ずっと前からテアトルは辞めている。
わたしも何か力になれたらと思う。だが、難しくなった。劇団では野尻さんの追悼公演「頭痛肩こり樋口一葉」を6月に上演する。



2002年5月9日(金)

九大の一般教養のコマで、マンガの講義をする。
マンガ表現論のさわりを講じる。「日本マンガ」の表現が何故、世界最高の水準に発展したのかという話を、資料を交えながらやる。時々熱が入りすぎる。
あんまり反応がなかったからだが、「空回りしているな」と思うと、どうしても変に力が入ってしまう。当然といえば当然だが、不安になった。とはいっても、学生にとっては新鮮な切り口の講義だったのではないか、と勝手に納得。
早く、マンガの表現論をまとめなければ、と焦っている。材料はあるのだが、資料を整理する時間がとれない。
手塚治虫論はたくさんあるが、表現論の切り口から語れる人がまだ出ていないのが残念なのだ。手塚さんを語った人の多くは、評論家である。「絵」が分からない。だから殆どの人は思想を語っても「絵」を語れない。私はマンガの思想は「絵」や「演出」に色濃く出ていると考えている。
「私は演劇畑だけに、絵や演出で「マンガ」を論じることができる。私の持ち味を生かした視点を提出したい。私と同じように「構図」に反応できる人材が欲しい。まとまった時間がとれない。困った。
日下先生と、「マンガ評論家」は「巨人を論じていない」という意見で一致した。ちばてつや論、石ノ森章太郎論、大島弓子論、萩尾望都論が出ていないではないか。評論家の多くは、マニアックな漫画家を、エッセイ風に論じているに過ぎないように思える。
映画評論や文芸評論は、ちゃんと巨人とも真摯に向き合っているではないか。



2002年5月8日(木)

久しぶりに久留米に帰る。今年から九州大谷短期大学の福祉学科で「生活表現」という科目を受け持つから、その打ち合わせを兼ねて「拡大科会」に出席したのである。
これで私は、集中講義ばかりだが、九州大谷では「戯曲論」「劇画論」「生活表現」の三科目を持つことになった。九州大谷には、教員として育てて貰った実感がある。
とりわけ、九州大谷の学生には借りがある。彼らと出会わなかったら、マンガの原作を自分の生活の大切な部分に加えることはなかったろう。目の前にいる、大谷の学生がお金を払っても、読みたいものは何なのかを、考え続けた。彼らが打てば響くような話とは何なのか、と考え続けた。それがよかったのだと思う。
女性事務職員も、私が行くと「お帰りなさい」と迎えてくれる。得がたい学校と出会えたものだ。
帰りに、溜まり場になっている喫茶店「琥珀亭」でマスターと長話。
今、久留米は時の人を輩出した街である。例の4人の看護婦である。不可解な部分が多いだけに、ゴシップ的な興味は後をひきそうだ。
主犯格の吉田純子という人は、琥珀亭の常連だったらしい。小学校高学年と思しき息子さんとよく現れたらしい。決まって日曜日に来るお客さんだった。入って来る時は「こんにちわ」と優しい感じで入ってくるらしかった。
久留米は、芸能人の産地だから、私自身誇りに思っている。だが、奇妙なところで有名になるのは困る。



2002年4月8日(月)

「不死鳥の落胤」の戯曲が「テアトロ」誌に載っているはずだが、まだ送られてこない。
発売は、一日じゃなかったっけ。早く見てみたい。

朝、冷蔵庫で「あいすまんじゅう」を見つけて食べる。
スティック状のアイスクリームの中にアンコが入っているお菓子である。
私が子どもの頃に、よく食べた。懐かしい。
製造は「丸永製菓」。住所は久留米である。やっぱりそうか。
昔、久留米だけで売っていた「あいすまんじゅう」が全国的に発売されていたのだ。
袋に「九州名物」と記されている。いまは、関東のスーパーでもかなり売られているらしい。すごい。
久留米発のお菓子は、これ以外に「クロボー」というのがある。黒砂糖をまぶしたかりんとうである。
これも、かつては、久留米の地場産業だった が、全国に広がったものだ。
ずっと「久留米発」のお菓子で通して欲しい。「ひよこ」は、かつては「九州の銘菓」だった。
それが、東京に工場を作り、東京以北の人が、「東京名物」と勘違いし、
やがて「東京名物」だと思っている人が多くなってしまった。そういう感じにはなって欲しくない。

「あいすまんじゅう」の袋には「モンドセレクション」で1996年から、4年連続で金 賞をとったと記してある。
「モンドセレクション」といえば、「ココナッツ・サブレ」を思い出すが、「あいすまんじゅう」で4年連続金賞ということは、それほど、大変な賞ではないのかもしれない。
一つの国から、30や40ぐらいは、出ているのではあるまいか。
とるのが、難しい賞はもっと別の「特別賞」とかなんとか、ありそうな気がする。
マルナガというローマ字のロゴは一瞬、モリナガと見間違えそうだ。
中日ドラゴンズの選手の胸にあるドラゴンズのロゴと「ドジャーズ」のロゴがそっくりだが、そんな感じで似ている。
そんな感じも微笑ましい。私が子どもの頃は、10円だったが、今は100円である。



2002年4月7日(日)

弟子というか、アシスタントというか、弟分というか、
うちの若い者が二人、ヤングジャンプ原作大賞に応募した原稿を読む。
講談社系の雑誌では、原作の賞はない。
集英社の賞だから、私は変に絡まなくていいのがありがたい。

かなり書けている。嬉しい。
どんな選者が選んでも、最低佳作ぐらいはいくだろう。
その後は審査員次第の運もある。
二人とも、この一年で長足の進歩だ。毎週二回のブレーン・ストーミングが鍛え上げたのだな。
頑張ってみるものだ。
しんどいが、取りあえずは、頑張って良かったと思う。

講談社系の雑誌でも、原作部門の賞を設けて欲しいものだ。
もちろん、私は審査には入らない。うちに集まった才能が、どんどんデビューできる場が欲しいだけである。



2002年3月29日(金)

銀行のキャッシュカードが何度やっても、「読み取れません」といってくるので、
新しくカードを作り替えることにした。

実は、以前からその状態だったが、窓口の機械でやって貰うと、「読み取れます」と いう。
キャッシュディスペンサーと、窓口にある機械で、読み取り力が違うんだよ、きっと。
銀行の責任ではないと思うが、客にとってはよくないよな。
業を煮やして、作り替えることにしたのである。

久しぶりに、銀行の窓口に座った。
本当に久しぶりだ。
窓口のお姉さんが、4月1日から、「普通預金の利率が変わるのをご存知ですか」という。
普通預金が、従来通りの「普通」と「スーパー普通」の二種類に変わるという。
「スーパー普通」って一体どういう状態なんだ。
で、普通だと、利子が0.001%だが、スーパー普通にすれば、0003%になるのだという。
(数字が間違っていたらごめんなさい。)残金が10万円以下だと、
スーパー普通の場合、手数料が300円ぐらいかかってしまうらしい。
10万円以上預けていれば、スーパー普通の方が得らしい。
私は、スーパー普通に切り替えることにした。
10万円だと、一年で多分30円ぐらい利子が多くなるんだな、きっと。
窓口のお姉さんは、スーパー普通に切り替えた私に、プラスチック製のシャーボとティッシュをくれた。
多分「新規のお客様」には一律にあげるんだろうな。
シャーボとティッシュでいくらするんだろう。30円より掛かっているだろうな。
金融業界はメロメロなのに、相変わらず不条理は不条理のままである。
銀行で働くのも大変だな。

とはいえ、知るということは、楽しい。
時間に余裕があったから、楽しい時間だったが、締切の日だったら俺も頭にくるな、
きっと。



2002年3月28日(木)

芝居の切符が、かなり売れてきた。
有り難いことである。焼け跡シリーズが軌道に乗ってきたということか。
継続は力なり、というが5年もやればこちらもかなりへばってくる。
が、一方で、調べれれば調べるほど、書きたいテーマが浮かんでくるのも事実だ。

最近は、戦後日本の資料がアメリカから、どんどん出てくるので、発見が多い。
終戦のどさくさに、目茶苦茶をやったアメリカ人たちが、
だんだんお迎えが近くなり、隠しておけなくなって、
本当のことを言ってしまう。カトリックは、神を裏切れないから大変だな。
その点、日本からは新事実がアメリカほどには出てこない。
多神教だし、仏教だし、秘密もあの世まで自分だけで持っていく他ないのだろう。
今の日本、日米関係、その基本型ができたのが、戦後政策である。
20世紀という、戦争だらけの世紀を作ったアメリカという「歴史の実験場」を考える
手がかりがそこにある。
へばってはいるが、もうしばらくやることになるだろう。



2002年2月26日(火)

西丹沢に水を汲みに行く。
中川温泉の先にキャンプ場がたくさん並んでいる場所がある。
その一番どんずまりのキャンプ場で昨夏キャンプをやった。
水がおいしかったので、いつか汲みに行こうと思っていたのだが、やっと決行することができた。
真冬だから、キャンプ場は開店休業の状態だった。
空気がピーンと張っていて気持ちいい。

留守番の人もいなかったので、バンガローを作っている大工さんに、
「水を汲んでいいですか?」と訊ねた。
「多分、いいんじゃない」という答え。
蛇口を見ると、凍って爆発しないように、どこも水は流しっぱなしにしてあった。
これなら大丈夫だろう、と判断して、持参したポリタンクに汲んだ。
西丹沢を山歩きした後は、いつものように、中川温泉の共同浴場・ぶなの湯に浸かる。
700円である。泉質が抜群というわけではないが、まあまあではある。
でも、身体の芯まで温もるから気持ちがいい。家に帰って、汲んできた水を飲む。美味い。
水の清冽な感じが舌に伝わってくる。
ペット・ボトルで売っている水とは比較にならない。
普段は、生協のミネラル・ウォーターを飲んでいるのだが、これとも比較にならない。
ハウスやサントリーの水は、恐らく水質は、西丹沢の水より遥かにいいだろうと思う。
だが、実際に飲んでみると、「水の生きている感じ」が問題にならないほど落ちている。
鮮度がなくなるのか、やっぱりペット・ボトルでは駄目なんだな、と実感。
生きた水を飲んで、「ああ、やはり人間は生き物なんだ」と思った。

余談だが、私が今まで飲んだ水で一番、精がこもっている感じでおいしいと思ったのは、
熊本・黒川温泉の水である。何年か前までは、ひなびていてよかったな。
東京の作家なんかも、来なかったし。
最近の黒川温泉は、旅行のガイドブックにしょっちゅう出てくるのが、さらにいけない。
地元の人間が、愛した温泉だったが……。
印象だけでいうなら、嵐山光三郎さんが、行った後の温泉は、どんどん駄目になっていくな。
嵐山さんの責任ではないか。駄目にならない旅館もあるが、温泉場トータルで見るなら、駄目になっていく感じがあるな。
実際、由布院はひどいものな。
由布院をあんなひどい街にしたのは、作家ではないかしら。
泉質は九州一だと思うけど、あんまり行きたくない街になってしまった。



2002年2月9日(土)

九州大谷短期大学で集中講義をやってきた。
担当科目は二年生の「劇画論」と一年生の「戯曲論」である。
私が劇作家にして、漫画原作者だから開かれた科目である。
劇画論をやっている大学はまだそんなにはないだろう。私は主に漫画表現論について講義した。日本の漫画とアニメの表現技術は世界最高といっていい。
演劇は輸入超過で、国際収支は赤字だが、漫画とアニメは輸出大国で超黒字ある。
文学の場合、村上春樹が中国でよく読まれていることがニュースになるが、それでも数万部の範囲である。漫画は日本でヒットすれば、韓国、台湾(中国語圏)ですぐに出版される。「ドラゴン・ボール」や「セーラームーン」はヨーロッパでも知名度が高く、世界共通語といってもよい。恐らく、川端康成や大江健三郎より遥かにポピュラーな名前だろう。
日本の文学が、トルストイ、ドフトエフスキー、ビクトル・ユゴー、シェイクスピア、テネシー・ウイリアムズに比肩できる巨人を近代に産み出していないのに、漫画は手塚治虫という巨人を産み出している。手塚治虫はテーマの大きさもさることながら、その表現の方法を生み出した巨人なのである。私の講義はもっぱら、手塚治虫の発明した表現技術の革命性に終始する。

私は、この地方短大(といっても郷里だが)での講義を大切にしている。理由は二つある。一つは、田舎にあるということ。
私は、夏目漱石と森鴎外を比べて、前者の作品が多数に愛される理由の一つに、地方の学校で教えていたことを挙げる。もちろん、資質の違いは大きい。だが、西洋を吸収した後、地方の若者に接したという経験は、大きかったと思う。地方の若者はどんなものをどんな形で読みたいのか、というのが肌で分ってくる。東京だけにいると、頭のいい人であっても、東京の若者しかわからないはずだ。
自分を夏目漱石にたとえる積もりはない。だが、私が漫画の形で表現をするのは、この短大で教える経験に基づいており、夏目漱石が平易な表現を好んだのは、地方で教えた経験が反映されているように思う。
もう一つの理由は、演劇専攻の学生は、あまり本を読まないからである。あまり本を読まない人たちが買う本が、本当に売れる本なのである。そういう本が必要なのである。私はそういう本を書きたいと思う。
教えていて、とてつもなく役に立つのである。

今年は雑談中にも就職の話は一言も出なかった。多くの学生は自分の意に添う就職ができていないのであろう。ごく一部、意に添う就職ができた学生も、周囲に気遣ってその話題には、触れないようにしている。厳しさを肌で感じた。



2002年1月4日(金)

今日の読売新聞の「文明を問う」というコラムに、塩野七生(作家)氏に次のような発言がある。

「知識人の一番の欠点は、自分にとって大切なことは、だれにとっても大切だと思うことにある。確かに先進国に住む人にとって自由は大切だが、飢餓にさらされ、内戦で死に直面した人々にとっては、自由とか民主主義とかは知ったことではない。彼らにとって一番切実なのは、明日死なないこと、食べ物があること、つまり国家が機能していることだ」

去年、南アフリカでエイズを取材してきた青島洋子さんに、こんな話を聞いた。エイズの患者であっても、初期の方はそれほど深刻な精神状態ではないということだ。貧しくて、明日食べるものがない子どもにとって、数年後に死ぬかも知れない、という病気の宣告は、将来に絶望を与えるものでもないということだ。

食べ物は、何よりも先んじて大切だ。

塩野さんは、イタリアから世界を見るから「食べ物」と「国家」がセットになって見えるのだろう。

ヨーロッパは、ユーロの時代だから、人々をより大きな風呂敷きでつつもうじゃないか、という時代認識もある。

私は、人間に国家のような大きな枠組みを維持する力があるのだろうか、と自分に問うことがある。アジアの島国に住んでいると、国家とは、随分乱暴な枠組みだなあ、と思う。

フィリッピンとマレーシアの国境付近に、スールー諸島がある。国籍はフリッピン人だが、人々はマレーシアのラジオやテレビを見、船でインドネシアのものを買ってくる。マレーシアやインドネシアとは、イスラム教でつながっているから、彼らに国境意識は少ない。多分、まともに税金を払っている人は殆どいないだろうし、「国家の恩恵」に浴している人も少ないのではあるまいか。(そもそもフィリッピンという、経済の破綻した国家が、辺境に回す予算があるとはおもえない)

スールー諸島には、ホロ島とタゥイタゥイ島という、私に国家を考えさせる島がある。その二つの島の、人種的なルーツは同じである。言語も同じである。

ホロ島の人は、好戦的なことで有名だ。イスラム過激派と政府軍との戦闘が絶えることがない。

タゥイタゥイ島の人は、まったく争いをしない。好まないのではなく、まったくしない。

その理由は、当人たちも、民俗学者もわからない。不思議な現象だ。

島が異なるだけで、どうしてこんなに違うのだろう。争そいがいやでホロ島から、タゥイタゥイ島に逃れた人もたくさんいるから、ホロ島にいる全てが、争そいを好むというわけではない。

ホロ島のことを考えると、国家のような枠組みは必要なんだろうな、と思う。

だが、タゥイタゥイ島にいると、「誰が国家のようなつまらないものを考えたのだろう」と実感する。国家も国境も気にすることなく、人々は平和に生きている。

私が知る範囲で、そこに住む人々が暖かい心を持って、治安という考えかたがなくても平和に暮らしているところは、タゥイタゥイ島である。「こんなところが本当にあるんだ」と感動した。こんなところに書くと、人がたくさん行くかもしれないが、まあ、いいか。知り合いでもいないと、ホテルもまともにない島だからな。

タゥイタゥイ島では、イスラム教系の学校とキリスト教系の学校は分かれているが、イスラム教徒とキリスト教徒は結婚する。

私の友人ベン(女性)はイスラム教徒。夫はキリスト教徒。娘が三人にて、二人はイスラム教系の学校に通った。一人はキリスト教系の学校へ。

タゥイタゥイの人々は、心のなかに「争そう」という因子を持っていないのではないか、と思うのである。

で、塩野氏に反論する積もりはないが、小さな島ならば、「国家」という考え方がなくても、なんとかなっているケースもある。

さらに、私が驚異に感じるのは、タゥイタゥイ島がきっと、銃弾の音の絶えることのないホロ島とセットになっているということだ。



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