放浪日記2004

筆・さいふうめい

2004年9月23日(木)
 
『近代麻雀オリジナル』の「空拳の瞬」の5、6話目の原作がやっとできる。
三日間、ああでもないこうでもない、と難航した。
W編集長は、連載開始から三回続けて巻頭カラーにしてくれた。
期待に応えなくては。
原稿を読んで、担当・Aは鳥肌が立ったとメールをくれた。
苦しんだかいがあった。
俺みたいに、努力だけが取り柄の凡人は頑張った分の半分も成果がでない。
人の三倍苦しむほか、ないんだよな。
ぐったりだ。
だが、これが俺のフォームだ。
 



2004年9月22日(水)
 
12月公演「籠脱け」のチラシデザインを頼んでいる上平君が来る。
上平君は、今、専修大学の先生。横浜国大の後輩だ。
斬新なデザイン。誰もやったことのないことを上平君はやってくる。
いい作品ができる。手応えを感じる。
上平君は、志が高い。
コピーを考えた。
「やるなら、今だ――!」
夜、サンマーク出版の植木社長と呑む。
京セラ(KDDI)の稲盛和夫さんの本「生き方」が好調な由。
私は、出たばかりのときに読んで手応えを感じた。
植木さんは、「稲盛さんの決定版を作ろう」と試みたらしい。
これまで、稲盛さんの本でいいのがないではないか、と。
今、18万部とのこと。私は30は行くだろう、と読んだ。
本に力がある。
担当編集のSは、植木さんを見ることで、
稲盛さんのどこがすごいかがわかるんだと思う。 Sは伸びた。稲盛さんは、色紙に「敬天愛人」と書かれる由。
西郷南洲を尊敬しているんだ。
西郷のような大きい人物を尊敬でき、桜島のように無骨で始末に終えないものと向き合うことができるから、薩摩は傑物が出るんだよな。
そういえは、上平君も薩摩だ。
気分がよくて、植木さんの前で「とよ田」の女将の手相を見て、
勢い余って本当のことをいう。
馬鹿なことをいった、と後で気が付く。
女将に深く謝った。ま、俺は久留米だから、仕方がない。
久留米が生んだ発明王・からくり儀衛門のことを書くのは、俺だと決めて家に帰る。
俺は「からくり」が好きなんだよ。
 



2004年9月20日(月)
 
9月20日(月) 川崎フロンターレのJ1復帰が、目前に迫ってきた。 
フロンターレの練習場兼合宿所が家から徒歩12分のところにあるので、
ときどき練習を見物に行っている。 
野球はダイエーホークスのファンだ。地元だからファンになった……はず。
だが、俺の地元は久留米だ。久留米の俺が、博多のチームのファンになるのは、本来は無理があった。広島より近いという理由で俺はダイエーホークスのファンになったのだ。もちろん、ホークスの野球は大好きだから、ホークスファンでいるのは好きだ。ファンなのは正直な気持ちだ。
だが、フロンターレは、純粋に地元だ。気持ちがいい。近所の人を応援している感覚。俺の中では、久留米と川崎、二つの地元が共存している。
久留米と川崎に共通点はあるか。ある。両方に競輪がある。
 



2004年9月10日(金)
 
平石耕一の『民主文学』に掲載されている戯曲「ウンダミア・レディ」を読む。ピーター・ラビットの作者(女性)が、田舎の農場を買いにくる話で、今月は一幕だけが載っている。(二幕物)
俺なら、下手なスラップスティックにしてしまうような題材だ。平石は、きっちりリアリズムに仕上げている。登場人物がイギリス人だから、平石文体に少し翻訳調の平明な文体が合わさった感じ。俺は一度舞台で見ているのだが、戯曲で読むと、意外にも翻訳調の印象は少ない。
平石は、二度もイギリスに留学している。俺は、舞台で見たとき、これを何故日本でやるのか、疑問に思った。俺は、今の日本に住む作家が考える、今の日本で上演しなければならない切実な問題を、そこに抱えているからその作品を上演するのだ、と思う。だから、どんな困難も乗り越えて上演できるのだと思う。
舞台で見たとき、リアリズム演劇としては上手くできているが、何故今の日本で、というのがわからなかった。
俺は戯曲で読んでみて、時代に逆行するおばさんの話なんだな、と思った。みんなが手放す農場を買いたがるし、時代遅れの種である羊を増やそうとするし。
おばさんは、止むに止まれぬ事情を持って、農場を買いに来ている。多分、今、長野県大町に住み、東京と行き来をする劇作家の重要なテーマなんだ。だから、リアリズムで書かねばならんテーマなんだな。
そこから先は、書くと無粋だ。
俺は、フィリピンに留学した。いつか、ラリーという親友のことをリアリズムで書こうと思う。ラリーはフィリピンを代表する、伝統芸能の研究者であり振付師だ。彼は、俺と出会い、何十回も一緒に練習をしたり食事をしたのだが、ずうっと俺に距離を置いていた。陽気なフィリピン人らしからぬ人物だった。ある時、彼の友人が、ラリーの祖父は戦時中日本兵に撃ち殺されたのだと教えてくれた。それ以外にも幾つかの誤解があったのだが、もちろん、劇的なことは何も起こらず、淡々と付き合いは深まり、今はお互いを親友と思える仲になった。
 



2004年8月18日(水)
 
「世界の中心で、愛を叫ぶ」を見る。
シアターアプルはガラガラ。
アベック多し。
二つ隣の女の人は、映画が始まるや、否や泣きはじめる。
小説か何かで、筋を知っていて、やがて来る不幸を思うだけで涙が止まらないと
いった様子。
俺は、面白いと思ったな。
芝居がしっかりしていて。
演出の行定勲という人は、芝居がわかっている人だな。
この人の芝居は、信用していいように思う。
企画物だから、色眼鏡で見られるし、使い古された手もいくつかあるが、私はコネタの使い方も、うまいと感じた。
 



2004年7月12日(月)
  高知に移動。
高知は、マンガ家を多数輩出した街。
やなせひろし。青柳裕介。黒鉄ヒロシ。……
何故野心家がこんなに生まれるのか――。
つまるところ、坂本竜馬だな。
高知県にだけマンガの上手い人が生まれるはずはない。
大きな志を持つことを、竜馬は教えているんだな。
桂浜の竜馬像を見ると、そう実感せざるを得ない。
大きな志――。
大きな夢を追いすぎて、始末に終えない一生を送る人がたくさんいる。
それは、分かっている。
だが、人が「こんな人になりたい」と思うような人物を輩出した街からは、
傑物が出やすいことは確かだ。
土産物屋で、竜馬のキーホルダーを息子二人に買う。
台紙にこう印刷されている。
「くよくよるすなよ。心はいつも太平洋ぜよ」

竜馬記念館で、竜馬直筆の手紙を何点か読む。
こんな文面のものがあった。
死ぬ奴は、風呂に入ったときに、湯に当たって金玉が割れても死ぬ。
死なない奴は、死んでなきゃおかしい時にも、死んでいない、と。
竜馬は、その手紙を書いた時、何が起こっても自分が死ぬという気がしなかったのだ。
竜馬は、33歳で死んだはずだが、その数年前に「運」のことが分かっていたんだな。俺が何冊か本に書いているようなことが、直感的に分かっていた。
そんな気がする。
俺は、自分の感覚を説明する必要もあり、博奕だの、道教だのと、色んなロジックを加えたが、多分、竜馬は、「喉が渇いたときは、水を飲めばいい」というような気分で、当然のこととして、それを知っていたはずだ。
そんなことを本にして、俺は詰まらん人間のような気がした。

 



2004年7月11日(日)
  四万十川は、ダムがない。
だから、自然が残っているのだ。
ダムが無い理由は、川の高低差がないから。
かつては電気も起せない、無用の川であったのだ。
そのために、自然が残った。老荘の「無用の用」そのままの、川である。

熊本の「黒川温泉」の同様だった。
交通のアクセスが悪く、地元の温泉組合でもかつては「なんとかしなければ」と焦っていた。
でも、どうにも手の打ちようがない。
だが、その鄙びた感じがいい、と、どうにもならないまんま、隠れ家スポットとして脚光を浴びてしまった。
こちらは「無用の用」というより、「人間のやることは、概ね恥ずかしいことだ」という感じ。
人が行く前の、黒川温泉を知っていてよかった。

四万十川、今なら、まだ「恥ずかしさも中くらいなり」である。
10年前に来ておきたかった。
四万十川の天然鮎を食べる。
「鮎が美味しい」という理由が初めてわかる。
川魚の味が、「ほのか」だから美味い。
その、ほのかさに奥行きがある、という味。
最初は、西行のような人が、この美味さを感じ、見つけて、日本人の味覚として定着したのではないか。
鮎が美味しく育つには、川の形、川の質、ともに整っている必要がある。
そこに気づいた
人がいるんだな。
 



2004年7月10日(土)
  四万十川で捕れた天然うなぎを食べる。
天然うなぎは、92年にフィリッピンで食べて以来だ。
肉が心地よく締まって美味い。うなぎに精が入っている感じ。
土用の日に、これを食べて精を付けようとした人の気持ちがわかる。
養殖うなぎでは、それがわからない。

 



2004年7月9日(金)
  少年マガジンの哲也班で、合宿をする。
三泊四日である。
場所は、日本最後の清流・四万十川。
都会の雑踏を離れて、哲也のことを考える。
最終日は、高知に行き、維新の志士に触れる。
いい試みだ。
俺は、合宿用の原稿を上げなくてはいけなかったので、
寝ずに羽田へ。
高知県は初めて行く県だ。

 



2004年6月30日(水)
  哲也ベストの「作者のことば」を書く。
折角、一冊の本を作るのだから、それを買わなければ読めない俺の文章が入っていた方がいいと思う。だから、しんどくても自分で書く。
哲也ベストも、遂に10集目である。
編集も、しんどい仕事をよく引き受けてくれている。
担当・Tは、連載5本を抱え、哲也の総集編を作りつつ、編集部中のカレンダーを毎月たった一人でめくっているらしい。(すごい数だぞ。)
今回は、浜松風水師、彦根リキ、大阪目羅編の三つが載っている。
狂言回しには、「土下座の重」を使っていたので、「土下座」のエピソードを書く。

 



2004年6月29日(火)
  集英社で、ヤングジャンプ原作大賞の講評をいうために担当・Sと会う。
真面目に講評。やはり、新人の将来がかかっているからな。
一つ褒めて三つ叱る感じにした。
4作品あったのだが、一つだけは、全然褒めなかった。
応募者の年齢がかなり高く、それ以上、物書きを目指すのはやめた方がいい、というレベルだったからだ。

本音を大事にしようと思う。
表面だけ取り繕って、心の中では何を考えているかはわからない、という付き合い方はしんどい。
俺は、精一杯やって、朽ちるなら朽ちてもいいと思っている。

 



2004年6月28日(月)
 
哲也の下打ち。
一挙二話の後編の絵が出来上がってくる。
星野さん、好調だな。俺は、忠臣蔵の討ち入りが大好きだが、そんなテイストの回だ。
俺は、野沢さんがいった言葉をいくつかアレンジして原案に使って持っていった。
フィットする。
野沢さんの生き方って、哲也、いや、少年漫画に使えるんだよな。
自分が信じられるって、どういうことなのかを知るんだよな。

いつか、野沢さんのことをマンガにしよう。
少女漫画誌で「マコ」ってタイトルでやるんだ。
一人の演劇少女が、テレビ創世記に「吹き替え」「アニメ」と出会って、声優に
目覚めていく話だ。
こんな面白い話、何で少女漫画はやらないんだ。

 



2004年6月27日(日)
 
劇団ムーンライトに戯曲の直しを持っていく。
ムーンライトの役者は、随分大人っぽい芝居が出来るようになっている。
いい作品になる手応えを感じる。
通し稽古をみても、ジンとくるシーンがいくつもある。
俺は、「名作だ」と思う。
たくさんの人に見て欲しい。
ムーンライトの代表作になるかもしれない。
稽古の後、野沢先生と話す。
野沢先生は、生来のポジティブ・シンキングの持ち主。
きっと、辛いことがどれだけあっても、絶対に何とかなると信じられる人生を生
きてこられたのだな、と思う。
「生きてさえいれば、何とかなると思うのよね」
いい言葉だ。
野沢先生のようになりたい、と思う。
今回は、尊敬できる先生とタッグが組めて本当に幸せだ。
俺は、野沢先生と会う度に、「マコちゃん」と呼ぼうと思う。
俺は、可愛い、と思うもの。
俺が「野沢先生」と呼ぶと、野沢先生も「さい先生」と呼ぶ。
これがいかん。
劇団員達も、「師匠」とは呼んでも、先生とは呼ばないようにしているという。
この芝居で、野沢先生との距離が近くなるといいな。(まだ、先生といっている)

 



2004年6月20日(日)
 
連日満員のうちに千秋楽を迎える。
ラボ公演は、若くて意欲のある役者を鍛える試みだ。
ベテラン連中が、少し後ろに回ったが、根気強く若手を支えてくれた。
俺は、久し振りの自作の演出。
心地よい疲れ。
やはり演出するハートを忘れては駄目だ。
今まで、自作を演出するのは、役者を自分の型にはめることになるからやめようと考えてきた。
でも、そんな考えは狭いことだ。
その時、思いつくことで、それが一番いいなら、それをやるべきだ。
タブーを作ることがつまらないことなのだ。
師匠の津上忠に、ダメだしを貰う。
「こういうことはもう卒業して、次のことをやらなくちゃダメなんだよ」
俺が「褒めるとこないの?」と訊いたら、「ないね」といい残して帰った。
確かにそうだ。師匠はいいことをいう。
俺は、もっとスケールの大きな作品を書かなければならない。
エンターテインメントという枠組みを感じさせているうちは、ダメだな。
今回は、音響の松本昭との仕事が久し振りで楽しかった。
俺が、何を求めているかを、俺以上に考え、色んな提案をしてくれた。
奴は天才に近いな。
昔は、随分喧嘩した。お互い、何でこんなに分からず屋なのだ、と怒り狂っていたものだ。
今、色んな世代の、色んな性向を持つアーティストと付き合うようになって、俺と松本はそんなに感性が相容れないほうではない、と気付いたのだ。

 



2004年6月6日(日)
  コミックバンチの三枝と打ち合わせ。
電車がなくなり、帰りは、吉祥寺からタクシー。
タクシーの運転手が、マスコミの方ですか?と訊くので、取りあえず、マージャンマンガの原作をやっている、と答えた。
運転手は、マージャンマンガは読まないようにしているという。
マージャン好きで、かつては何日でも続けて打っていたほどの入れ込みようだったらしい。
で、忘れるために、マージャンマンガも読まないようにしている由。
で、ここから先が、その運転手に聞いた話。
「私の昔の麻雀仲間にこんな、すごい男がいたんです。手積みの時代ですがね。崩した山を洗牌して、積むとき、その男は全部の山を覚えてしまうんです。そいつが、積むとき、傍で見ていても、変な動きは一切ないんです。何気なく積んでいるだけなんです。
でも、天和積みは、簡単にやりましたね。サイコロが5か9なら、天和でした。大三元積みは特に簡単だといっていました。平和三色系の方が難しいとはいっていましたが、これも難なくやりました。
後ろから、そいつのうち回しを見ていると、奇妙なんです。出来上がった面子を落として、変な牌を残す。すると、変な牌がくっついて手になってくるんです。
変な待ちでリーチをかけると、一発ツモなんです。
全ての山が、わかっているんです。
前の局で山を崩したときに表面を見た牌が、どこに積まれていくのかが、全部覚えられるっていうんですよ。
そいつは、いつもはそれをやらない、といっていました。怪しまれるから、と。オーラスなどの、競った局面で、勝たなくちゃならないときだけ、使うんだといっていました。
今、思い出しても、すごい男でした」
もちろん、その運転手は「哲也」を読んでいない。というより、マンガも、殆ど読んでいないらしい。
加えて、その運転手が嘘を付いているとも思えない。話を膨らませている感じでもない。つまり、本当にあったことを、何気なく話しているだけのように思える。そんな嘘を付いて、得になる局面でもないのだ。
運転手の年齢は、私の見立てでは60歳前後であろうと思われる。作り話をして、相手を喜ばせるようなサービス精神の持ち主にも見えない。
私の「哲也」を意識していないことは、間違いない。大三元積みは簡単で、平和三色系は難しいという話が、哲也に出てこないからだ。哲也では、自分の山に、平和三色を積み込む話は出てこない。というより、私がそんな話を作るわけがない。手が小さくなるのだから、ドラマ性が薄れる。多分、他の麻雀マンガの受け売りでもないだろう。
「平和三色系の積み込みの方が難しい」という話が、私にはリアリティを持つ。
運転手にこう訊かれた。
「お客さんなら、知っているかもしれない。大車輪って、ピンズでなくてもいいんですよね。私がやったとき、ピンズじゃなくては駄目だ、ってことで、チンイツ分しか貰わなかったんだけど、ピンズじゃなくては駄目だ、なんてどの本にも書いてないんですよね」
それも、そうだ。大車輪は、どのルールブックでも、ピンズで説明してある。だが、「ピンズでなくては駄目だ」、
とは書いてはいない。大車輪という名前から、みんなピンズだと思っている。多分、そうだろう、と私も思う。
しかし、ピンズでなくては駄目だ、とは書いてはいない。確かに。
たとえは、九蓮宝燈は、一般にはマンズで説明してある。だが、「マンズでなくては駄目だ」とは書いていない。何故なら、ソウズでもピンズでもいいからだ。
そう考えると、大車輪の項目に「『ピンズでなくては駄目だ』とは書いていない」、という指摘は、運転手の体験から発せられた肉声である。
つまり、この運転手は、実感に基づいて言葉を発する人物なのだ、
と私は思った。降りるとき、運転手がこう聞いてきた。
「お客さんが原作を書いているというマンガ、何ていうんですか?」
私は、少年マガジンの「哲也」であることを伝えた。
「よく行く食堂に、少年マガジンが置いてあるから、今度読んでみますよ」という。
その運転手が、哲也を読んだら、腰を抜かすかもしれない。
今、掲載されている哲也の対戦相手は、「中(あたる)」である。
その運転手が語った能力の持ち主と同じである。
私は、フィクションとして「中」というキャラクターを考えた。
こんな能力の持ち主は、実在しないだろうな、と思いつつ。
本当に、そんな人間がいたのだろうか――。
それにしても、である。
シンクロニシティというのは、あるのだな。
多分、本当にシンクロニシティだったのだ。
そうでなかったら、俺は相当巧妙に担がれていることになる。

 



2004年6月5日(土)
  劇団ムーンライトの制作・岩本さんより電話。
手塚先生の奥様より、「ガジャボイ追想」の上演は、戯曲そのままでよいとの連絡を受けた由。よかった。
ただ、「ガジャボイ」というニックネームを、奥様があまりお好きでないようだとのこと。
ただ、作品世界、ムーンライトという劇団の雰囲気を考えると、「ガジャボイ」というタイトルがフィットするように思う。一応、「マンガ創世紀」というタイトルも用意したが、ムーンライトの劇団員たちも話し合い、「ガジャボイ」で行きたいという気持ちで固まったようだ。
芝居には、幾つもの困難が立ちはだかる。立ち止まり、打開策を考え、そして、実行する。何度も何度もそれを繰り返して、初日を迎え、千秋楽に漕ぎ付ける。
苦しい。それが芝居なのだといえばそれまでだが、ムーンライトにとっては今回は初めての書き下ろし作品。
ムーンライトの制作は、本当に根気強く対処してくれている。感謝。

 



2004年5月14日(金)
  免許の更新に、麻生警察に行く。
目が悪くなっているようだ。
視力検査をして、「ギリギリですよ」といわれた。
まだ眼鏡は要らないようだが、原因はパソコンだ。
これ以上、目が悪くなるのはいやだな。
だが、パソコンはやめられないし。困った。

最近は、年金ばやりでいやだな。
俺は、二十代は全然おけらだったから、年金なんか払ったこともないし、払おうとも思っていなかった。
それ以前に、30歳まで生きているとは思っていなかったし。
生き残ると、困ったことが増えるな。
結局、三十歳からはカミさんの扶養家族になり、カミさんの給料から天引きになれる形で、年金を払うことになるのだが。
それだって、意に沿わない払い方だったし。
今でも、二十代の役者修行の若者には、年金払うぐらいなら、ダンスやボイストレーニングのレッスンを受けろよ、といいたいぐらいだな。
俺は、やはり「男は野たれて死ねばいい」という考えは変わらないな。
一方では、「国民の義務を果たしていない」といわれるときつい。
年金、保険は任意でいいんじゃないか

 



2004年4月21日(水)
  『漂鳥の儚』の稽古初日。
久し振りにホームウラウンドで演出。
心地よい昂ぶり。
最初が肝心。でも、よい初日だった。
演出協力の倉持一裕、美術の加藤真由子、舞台監督の尾花宏行も姿を見せてくれた。
今回は、挑戦者魂を忘れないように、若いスタッフ中心で行く。荒々しく行く。

夜、沢木耕太郎の「コロナ冠」を読む。
週刊少年マガジンの編集・YとKが、私の著書「阿佐田哲也勝負語録」のことが載っていると教えてくれたからだ。そういえば、沢木耕太郎は『壇』から読んでいないな。

私の本が出てくるのは、沢木さんが移動する飛行機の中−−。
沢木さんの隣に座っている人が読んでいる本が、私の本だ。
沢木さんは、阿佐田哲也の著書は「すべて読んでいるはずだが、私の知らない本がまだあったということなのだろうか」と怪訝に思う。
で、「どんな本なんですか」と訊ねる。
隣の人はこう答える。
「これは阿佐田哲也自身の本ではなくて、なんとかという人が阿佐田哲也の言葉を集めたものなんです」
次の一文は、全て記す。
「そして、見せてくれた表紙には、確かに小さく『さいふうめい』という不思議な著者名が書いてあった」

初出は、「7年以上前」とあとがきにある。
私は『阿佐田哲也勝負語録』の文庫本の奥付けを調べてみる。
1996年とある。時期はその頃だ。丁度合致する。

四六版が出たのは、92年だった。私はフィリッピンに住んでいる時だから、こちらのほうは、覚えている。
この本は、趣味のように週末を使って調べて書いた本なので、足かけ5〜6年かかっているはずだ。
ということは、何とかまとまらないかな、とぼんやり考え始めたのは、85年ごろだろうか。
はるか彼方のことだ。気が遠くなる。

少年マガジンの編集・YとTが私の『勝負師伝説・哲也』を原案を頼みに来たのは、 1996年である。彼らが私を訪ねた理由は、『阿佐田哲也勝負語録』を読んだからである。沢木さんが、「不思議な著者名」と感じた人物をよく尋ねてくれたものだ。

当時は、誰もが「不思議な著者名」だと思ったはずだ。
先ず、サンマーク出版が、よく出してくれたな、と思う。
この本を、高く評価してくださった月刊プレイボーイの副編集長・寺田さんは、数年前に、亡くなられた。
寺田さんは、編集・中村さんに「この著者と会いたければ、飛行機に乗っても会ってこい」と言ったそうだ。

色んな人の後押しを受けて、今がある。
丸くなるわけにはいかない。
とんがっていることがご恩返しになるのだ、と独り決めして、布団に入る。



 



2004年4月13日(火)
  東京工芸大学の初講義。
前期だけだが、俺は「メディア論」という講義を受け持っている。
真面目に「ノンバーバル・コミュニケーション」を語る授業だ。
演劇と漫画の両面から、言葉以外の伝達力を説く。
「ノンバーバルコミュニメーション」を語るのに、俺は丁度いい人間だと思っている。
「パフォーマンス学」というアプローチもあるが、俺は「ノンバーバル・コミュニケーション」という考えが気に入っている。
二者間の対話で、言葉で伝えられる部分は、35%。残りの65%は言葉以外の情報から受け取る、という話で始める。
授業の終わりに、半年間、俺は真剣にやるから、真剣に聞いてくれ、という。



 



2004年4月11日(日)
  劇団ムーンライトの本読み。
劇団員たちに熱が入っているのがわかる。
野澤先生も、この新作が気に入ってくれている。
よかった。
ムーンライトにとっては、初めての書き下ろしだ。
何とか、いい舞台に仕上がって欲しい。
本読みを終えて、野澤先生、劇団員達と宴会。
約束を果たせて、一人一人の顔がじっくり眺められる。
俳優の鈴木さんは、マガジン編集部の三浦さんを知っている由。
なんと、彼は「クロマティ高校」のアニメで、林田の声をやっているのだった。
クロマティ高校、縁があるな。
俺は、作者の野中英次さんが、講談社漫画賞をとった時に、パーティで傍に座って話をした。漫画のように脱力系の話し方をする方だ。



 



2004年4月5日(月)
  哲也の下打ち。
携帯電話のゲーム「哲也」が好調の由。
ゲームのセクションが、講談社の別の雑誌と組んで、企画をやるらしい。
マンガ作品が、他の雑誌と共同企画なんてあんまり聞かないが、ゲームだとそれもあるんだな。
片や、原稿の方は、難行苦行の果てに、四稿目入れ、何とかまとまる。
まとまる、というのではないな。
攻めきった。これ以上、攻められないぐらい、攻めた。
150キロの球を1試合投げ続けた感じ。
ぼろ雑巾のようにくたくたになる。
ビールを呑み、泡盛を呑み、ドロのように眠る。



 



2004年4 月1日(木)
  劇団ムーンライトへの書き下ろし「ガジャボイ幻想−−私の手塚治虫」やっと書きあがる。
根を詰めていたので、放浪日記が疎かになってしまった。
手塚と私には、他の人にはあまりない共通点がある。
それは、演劇とマンガの両方に携わっているということだ。
彼が、マンガに導入した演劇の手法は、多分私でないと語れないだろうという部分がいくつもある。
演劇とマンガ、その両方の現場を知っている人は、他にはいないだろうから。
私は、私が手塚に受けた影響と、私が考える手塚マンガの新しさを、舞台の形でやってみたかった。
実話に引っ張られると、ドラマが面白くなくなるので、ノンフィクション・フィクションの形にした。
物語の主人公は、私という語り部である。
フィクションだから、手塚と思われる主人公は、ニックネームのガジャボイということにしている。実話ではないが、手塚の懊悩や葛藤は、芝居のテーマである。
私の内にある手塚治虫。
劇団ムーンライトは、主宰者が声優の野澤雅子先生。劇団員の殆どは、声優さんだ。私は、マンガのことだけではなく、手塚のアニメに対する情熱も戯曲の中に込めた。
苦しかったが、何とか、戯曲ができた。
後は、直しで何とかいい舞台になる。
大きな手応えを得た。
11日に、野澤先生を交えての打ち合わせ。野澤先生、気に入ってくれるかな。



 



2004年3月22日(月)
  毎日新聞の名物編集者・吉田俊平さんのお葬式。 
内山安雄は、昨夜の告別式に行ったらしい。 
俺は、「哲也」の締めがあるので行けず。
「そのうち何か一つやりましょう」といってくれ、そのまんま亡くなられた。 
こんな感じの宿題は、生きていると、どんどん増えていく。 
吉田さんがいたからという理由で、毎日の出版局で出した作家は多い。 
吉田さんは、本を書くことよりも、俺に書評をやらせたがっていたように思う。 
ただ、彼が「アジア・ノワール」というシリーズを出し始める時に出会い、俺がフィリッピンに詳しいという触れ込みで出会ったから、企画としては不景気な感じで終わった。 朝、追分日出子に長電話をする。 
追分は、吉田さんが「サンデー毎日」のデスク時代、彼の下で働いた由。かなり、対立したが、誉めるところは誉めてくれる人だった、と。 
追分と長電話をしたのは、数年ぶり。これは追分が気づいた。で、前回長電話をしたのはいつだろうと話し合った。毎日の編集者・今泉さんが亡くなった時だった、ということがわかる。 
考えることが多い間(ま)――。 
追分は、小学館で出す予定のノンフィクションで煮詰まっている由。



 



2004年3月19日(金)
  歯医者に行く。
あと2回で終わる予定だった。ところが歯医者がこう言った。
「あら、こんなところから虫歯が出てきた。ここは見えにくい場所なんですよね。これ1本だけやって、治療を終わりにしましょう。」
そう言われながら、もう随分その歯医者に通っている。
昔の歯医者は、初日によくこういったものだ。
「ここと、ここと、ここが虫歯になっていますね。順次治療していきましょうね」
そう言われて、自分の痛む歯1本だけよう直したら、もう通わなくなったものだ。
一体何回通えばよいのだ、考えるだけで憂うつになってしまう。結局、通わなくなるのが常であった。
ところが今回の歯医者はなかなかの知能犯である。また役者でもある。
私は、何度か「あら、またこんなところから虫歯が」と言われているうちに通い続けているのである
恐らく、今回の敗者は、確信犯だったのだ。結局、また何回か通わなくてはならない。
歯医者もだんだん巧妙になってきた。芝居上手は、結局勝者だな。




 




2004年3月13日(土)
  午前中、筑後川の土手を歩く。
菜の花を見るためだ。 
が、菜の花は来週見ごろか。
俺は、筑後川の菜の花を見るたびに、久留米に生まれてよかったと思う。 
菜の花の一面広がる黄色は、気持ちを和ませるよな。 
よく、自然があんな黄色を作ったものだ。 
昼、沖食堂で、ラーメン。320円也。
藤田さんは、岐阜でレースらしく、不在。負傷後、やっと復帰。 
50歳で負傷し、また復帰できるのが、技である。健闘を祈る。
俺は、久留米を満喫して、空港へ。




 



2004年3月12日(金)
  久留米にいる。
昼は松尾食堂で、肉丼。770円也。 
筑後市民ミュージカル「彼方へ、流れの彼方へ」のプレビューを観るために、福岡県筑後市の「サザンクス筑後」に行く。
リハーサルは4時から。プレビューは、7時から。 
原作は、滝口直彦の「千間土居」。それを俺が台本にして、齋藤先生の演出。作曲は上田聖子。市民ミュージカルでこんなメンバーが揃うことは、あまり無いだろう。 
上田聖子の曲がよかった。音楽の力を信じているんだな。全然こびていないもの。作品を高みに高みに導いて、それでいてとっつき難い部分が一箇所も無い。上田聖子がそういう生き方をしているんだな。 
上田聖子は一時音楽座の座付き作曲家だった。音楽座は彼女で持っていたのかもしれん、と思う。もちろん、他の人もいてのことだが。 
とはいえ、俺も言葉を信じている台本を書いたと思う。言葉が逃げていないし。市民ミュージカルの域を超えた台本になった。気になるところが10箇所程度出たので、直しをすることにする。
夜、琥珀亭で呑む。松田君のかみさんと振り付けの橋本先生が八女高校の同僚であることを知り、店で合流。12時過ぎまで呑む。 
松田君は、朝顔師。肥後朝顔作りでは、熊本県以外で初の会員。昨年、肥後朝顔のコンクールで、一位になった。彼は、「世界一」と称する。もちろん、世界一には違いない。熊本以外でやっている人はいないんだからな。 
朝顔は、遺伝子が不安定で奇形が出やすく、それを愛でるのだが、深い趣味だ。江戸時代以来の武士道から出た趣味である。肥後には「肥後六花」といわれる、武士道で花を育てる習慣があった。それも6種類も。松田君からの、受け売りだが、聞けば聞くほど面白い。 
肥後の侍は、ホモが一杯いたに違いない。 
思い立って、俺は、俺が20代の頃、ホモの人に見初められ、言い寄られた話をする。この話は、何時何度やってもウケる。多分、俺の中にある形質が触媒となった面白さなんだな。
俺は若い頃から、ホモの人によく言い寄られる。俺がその気になっていたら、開発されていたかもしれん。どちらの生き方がよかったかは、分からないが。




 



2004年3月6日(土)
  新宿発11時40分頃の小田急線急行に乗る。
俺の前で立って、台本を見ながら、セリフの稽古をしている女優がいる。
赤いスタジャン。昔の演劇少女は、こんな感じで格好よかった。そのまんま、30代半ばになった感じ。
この娘が格好いいんだよな。
芝居を、砂つぶほども疑うことなく、信じているんだよな。その娘は売れたことはないように思う。華もないし。
だけど、信じ方が格好いいから、いやなアカが付かないんだよ。
俺は、うちに出ないかといいたかったが、それも変だしな。
電車の中で、俺はいい芝居を観た。




 



2004年2月19日(金)
  夏目漱石の『明暗』を星野さんに間違って説明したのが、気になって読んでみた。 
主人公の男が、病気になり、手術をし、予後が悪く、温泉に湯治に行くまでの話である。話に起伏があるわけでなく、奥さんや友人と、家族や友人との付き合い方、キリスト教などに関する考えかたを違いを話合うシーンが延々と続く。
歳をとると、こういうことが大事なんだろうな、と思う。多分、漱石はエッセンシャルな話を書いたのだ。 
問題は、俺がこの話を、何故『夢十夜』と勘違いしたかということだ。夢の話は一箇所しか出てこない。それに、あまり際立ったエピソードとも思えない。
多分、漱石は、無意識にか、意識的にかわからないが、自分の死を「自覚」していたのではないか。それが、俺の中で走馬灯の中の「夢」のように発酵したのではないか。 
とはいっても、今はその程度の勘違いは、珍しくはないが――。 
恐ろしいのは、高校時代は、『明暗」全然面白くなかったはずだが、今日は、結構面白い箇所が出てきた。爺さんになると、傑作に思えるんだろうな。 
夜、「エースに賭けろ!」だか、そんなタイトルのテニスドラマを10分ほど観た。上戸彩の芝居を初めて見た。上手い。リアクションのタイミング、溜め、内面の変化に持っていくずらし、相手にアクションの起こすポイント、全部ツボを押さえている。この人は大きくなるな。




 



2004年2月14日(土)
福井に移動し、東尋坊に行く。
切り立った崖に立つのが、みんな怖いらしい。
俺は、そこに立つのは怖くない。
不思議だ――。
人が怖くて、自分が怖くない状態、になったことが珍しいのだ。
俺は閉所や速度の速い場所などで、パニックがくる。
子どものころから、その傾向はあった。
それが、高校時代から、薬がいる体になった。
不安神経症という病名が付くと、薬に頼ることになる。
それまでは、「困った身体」に過ぎなかったのに。
体調が悪い時は、小田急線の急行にも乗れない。閉所は5分が限界で、7分になると、呼吸が出来なくなる時がある。
結局、薬を飲んで落ち着かせて、乗り直すほかない。
飛行機や新幹線、JRの特急など、薬なしには耐えられない。
それほど不便な身体の俺が、何の不安も無く、他の人に恐怖が走るなんて。
帰りの電車で――。
作中で、哲也が読む本を『明暗』にしてください、と星野さんにお願いしてあった。
星野さんは、電車の中で「どんな話ですか?」と訊ねてきた。
俺は、高校時代の記憶を頼りに、「男の夢の中に出てくる話なんだよ」といった。
だが、変だ。
何故、『明暗』なのだ。
小骨が刺さったような感覚――。
『それから』と同じ本の中に入っていたのではないか――。
が、特急電車に乗っていたので、当然俺は安定剤を飲んでいた。
俺の言ったことは違うな、と思いながら、俺の記憶はどんどん薄れていった。





2004年2月日12(木)
  少年マガジンの「哲也」班で金沢に出張。 
兼六園と金箔作りの店を見学。 
金箔をよく0.1ミクロンまで伸ばそうと思ったものだ。金箔は0.1ミクロンまで伸ばされるほど、大事にされて嬉しいのか、くたくたに疲れて人間を恨んでいるのか。 
金箔に伸ばす途中に「コッペ」という工程があった。俺は「コッペパン」の「コッペ」の由来がわかるのではないか、と期待して店の人に質問した。「小兵」だったかな。 
コッペパンが何故そう呼ばれるか、知らなかった。もちろん、金箔の「コッペ」と同じかかどうかもわからないが。




 





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