明星 与謝野鉄幹・晶子の道行き
登場人物
与謝野鉄幹
与謝野晶子
山川登美子
森鴎外
有島武郎
大杉栄
平塚明
伊藤野枝
保持研子(やすもちよしこ)
中野初子
北原白秋
増田俊子
石川啄木
深尾末子(晶子の秘書)
玉野花子
島村抱月
松井須磨子
御園艶子
千草桃代
釜ヶ崎利彦(憲兵隊長)
松浦恵(憲兵隊員)
椎名毅(同)
遠藤雄二(同)
安岡賢次(同)
梅崎秋雄(新聞記者)
上野千恵子(新聞記者)
安田将子(新聞記者)
室田美和(居酒屋の女将)
客二人
医師
看護婦二人
プロローグ
1935年(昭和十年)東京のとある病院の一室。
その部屋のベッドに、年老いた与謝野鉄幹(62)が眠っている。そのベッドの横に彼の妻である与謝野晶子(57)が座っている。
部屋にはもう一人、看護師がいて。彼女は、鉄幹の点滴を代えて、晶子に会釈をしてから部屋を出ていく。
看護師が部屋を出ると、待ち構えていた三人の新聞記者、梅崎秋雄、上野千恵子、安田将子が手帳を片手に彼女に詰め寄ってくる。
梅崎 鉄幹氏の容体は? もう大分衰弱されているとか?
上野 肺炎をこじらせて、もう長くはないとの噂ですが?
安田 医師の見解は?
急に詰め寄られて困惑する看護師。
看護師 ここは病院です! 騒がれると他の入院患者さんたちに迷惑が……
上野 せめて一言だけでも!
看護師 お答えできません!
看護師は逃げるように去っていく。
梅崎 あ、ちょっと!
上野 ……しかし、この様子じゃあ、長くないっていうのは本当かもね。日に日に看護師や医者の出入りが激しくなっているし。
安田 与謝野鉄幹死去……明日か、明後日の朝刊の見出しは決定ですかね。
梅崎 浪漫主義短歌の終焉ってやつですね。
上野 そんな大げさなことでしょうか?
梅崎 そりゃそうでしょう。明治の歌壇に浪漫派の革命を起こしたとされる文芸雑誌「明星」を創刊し、石川啄木や北原白秋、日本文芸にとって欠かす事のできない名だたる作家を見出し、なによりも、あの与謝野晶子の夫ですよ。晶子夫人は明治、大正という時代を代表する女流大物作家です。その夫である鉄幹氏は……。
上野 では聞きますが、そんな大物たちを輩出した鉄幹氏の代表作を、君は言えますか?
梅崎 それは……。
安田 確かに。明星を発刊した新詩社の代表ではありますが、与謝野鉄幹本人に、文学の才があるかと言われれば、言葉に窮しますね。
上野 鉄幹氏は、与謝野晶子という一流の威を借る二流文士よ。私はそう思っています。晩年は二人でよく旅行したという話ですが、実のところ、二人は不仲だったと思っています。
梅崎 でも、晶子夫人は、ずっと鉄幹氏の看病をしていますよ。
安田 案外、我々報道陣に向けての芝居かも。
上野 夫婦仲をことさら良さげに見せている感じです。あの二人は、もともと鉄幹の前妻からの略奪愛ですからね。
安田 略奪愛? 本当ですか?
上野 知らないの? 鉄幹にはもともと林滝野という妻がいて、その子もいたの。この滝野の父親、つまり鉄幹にとっては義父ですが、鉄幹は義父に金を出させて、のちに明星を創刊する文芸社、新詩社をつくったのです。しかし、鉄幹は晶子と出会い、滝野を捨てた。前妻から金をむしり取って、本人は若い浮気相手とよろしくやっていたのです。
安田 そんなひどいこと。実際はドロドロなんでしょうね。
上野 新詩社はずっと資金繰りに苦しんでいますが、大部分は、鉄幹が金にだらしなかったせいだという話です。見栄っ張りで変人。金に女。あれは男のクズですね。鉄幹は他にも、浮名を流して、我々にメシの種を提供してくれたものよ。有名な所だと、山川登美子とか。
安田 あった! 登美子と晶子、鉄幹の三角関係。登美子も晶子と同じく鉄幹に見いだされた兄弟弟子だという話。まったく、あんなダメ男のどこが……。
上野 晶子さんだって、作家の有島武郎と親密だったというし。
その時、病院の入り口のほうから、「コホン」という大きな咳払い。記者たちが声のしたほうを向くと。そこには、晶子の書生である深尾末子が立って、記者たちを睨んでいる。彼女の手には着替えなどの荷物。
末子 ここは、病院です。好き勝手に噂話に花を咲かせる場所ではありません。
上野 あなた……たしか晶子夫人の書生の……。
末子 深尾です。あまりここで騒がれますと、旦那様のお身体にさわります。帰ってください。
記者たちを押しのけて、鉄幹の病室に入ろうとする末子。だが、上野が、末子の肩を掴んで止める。
梅崎 まぁまぁ、待ってくださいよ。晶子夫人のコメントが欲しいんです。あなたからも晶子夫人に……。
末子は、肩にかけられた梅崎の手を取って捻じりあげる。悲鳴を上げる梅崎。
梅崎 アイタタタタ!!
末子 ……まったく嘆かわしい。あなた達はそれでも報道に携わる人間ですか! 長年連れ添った旦那様の危篤に先生がどれほどお心を痛めているか、それをあなた達は好き勝手に……恥を知りなさい!
梅崎の手を離す末子。末子に恐れをなす記者たち。
末子 立ち去りなさい!
蜘蛛の子を散らすように逃げていく記者たち。それを見届けて、病室に入る末子。末子の入室に顔をあげる晶子。末子は笑顔で応える。
晶子 あら、末ちゃん。いらっしゃい。今、お茶を……。
末子 ああ、大丈夫、先生は座っていてください。それより……旦那様は……。
黙って首を振る晶子。
末子 そう、ですか……。
晶子 お医者さまの見立てでは、今日か、もって明日までとか……。
末子 お気を落とさないでください。
晶子 私は大丈夫よ。それより、ありがとう。
末子 何がですか?
晶子 あなたの声、ここまで聞こえてきたわよ。
末子 すみません! 恥ずかしい……。
恥ずかしがる末子。おかしそうに笑う晶子。
晶子 いいのよ。私のためでしょう? あなたは優しいものね。
末子 そんな……。
晶子 でも、記者さんたちには、少し気の毒だったかしら。
末子 そんなことありません! あの人たち、好き勝手に旦那様の事を……思いだすだけでも憎たらしい。
晶子 (笑う)でも、あの方たちが言っていたことも、案外、的を射ているのよ。
末子 え?
晶子 お金にも女の人にもだらしない。本当、私がこの人のおかげでどれだけ苦労させられたことか……。
どこか楽しげに愚痴を言う晶子。そんな彼女を末子は不思議そうに見ている。
末子 先生……それでも、先生は、旦那様、鉄幹さんと、これまで歩んでらっしゃったのですよね?
晶子 そうね。私は、与謝野鉄幹の妻として、彼と人生の道行きを同じにした。
末子 その事を、後悔してらっしゃるのですか?
晶子 後悔……どうかしらね? 思いだすのは、辛い事や苦労した事ばかりだけれど……。ただ一つ言えるのはね。私は、この人の明星でいたかった。
末子 明星?
晶子 私はこの人のために輝きたかった。暗い、夜の闇を、仄かに照らす明るい星。儚いけれど、確かにある。美しい、光り輝く星……。
その時、ベッドの上の鉄幹が急に咳き込みだす。慌てて駆け寄る晶子。
晶子 あなた!
末子 旦那様! 先生、お医者様を……すいません! 来てください!
末子の声に医者と看護師たちが病室に飛び込んでくる。
晶子 あなた! しっかりして! あなた!
晶子の鉄幹を呼ぶ声が響く。
――暗転。
1908年(明治四十一年)、東京新詩社。
机が並ぶオフィスで、北原白秋(23)石川啄木(21)増田俊子(26)の三人が、忙しそうに働いている。(以下、本編は便宜上「暗転」と記してあるが、極力「明転」で処理される)
白秋 啄木君。原稿はできているかい?
啄木 もうちょっと待ってもらえません? 白秋さん。
俊子 早くしてよ。校了日はもうとっくに過ぎているんだからね。今日中にできなかったら、ただじゃおかないから。
啄木 勘弁してくださいよぉ。もうちょっと、もうちょっとなんです。
俊子 うちは部数も落としているし、印刷屋を怒らせると今月こそつぶれるわ。おおかた、昨日も飲んだくれていたんでしょ? 自業自得。お金もないのに、どうしてそう自堕落な生活ができるのかしらね。
啄木 俊子姐さんはきついなぁ。鉄幹先生に、白梅の君と名付けて貰った人とも思えない。
俊子 白梅の君でも会社は守らなくてはね。泣き言言う位なら生活を改めなさい。
啄木 己の欲望に忠実に生きる。自分の欲望を昇華してこそいい作品は生まれるのです。一見自堕落に見える僕の生活は、全て良い作品を生む肥しになっているんだなぁ。という訳で、お金貸してもらえません?
啄木の手をはたく俊子。
啄木 痛い!
俊子 寝言は寝ている時に言う物よ。
白秋 まぁまぁ二人とも。啄木君の言葉もあながち間違いじゃない。事実、啄木君はわが新詩社、期待の星だ。明星に掲載している彼の作品は、とても高い評価を得ている。
白秋の言葉に調子に乗って胸を張る啄木。俊子が凄むと、白秋の影に隠れる啄木。
白秋 だが、啄木君。君も程ほどにしないと。先日、飲み屋の女将がここにまでツケの取り立てに来たよ。
啄木 本当ですか?
白秋 しょうがないから、僕が立て替えておいた。
啄木 さすが白秋さん!
俊子 白秋さんは啄木君に甘すぎです!
白秋 そうでもしなけりゃあの女将帰ってくれなかったんだよ。
俊子 まったく、うちの男どもは、情けないったら。少しは晶子先生を見習ってください。
白秋 晶子先生、今も奥で書いてるの? 徹夜三日目じゃないか?
俊子 先生は売れっ子ですからね。他社の締切が三つも四つも重なっちゃったって。
啄木 どこにそんな力があるんですかねぇ。
白秋 まったくだ。三年前の明治三十七年に発表された「君死にたもふことなかれ」。当時、日露戦争下の好戦ムードにあって、あれだけ力強く、そして美しく反戦を訴えた詩は他に類を見ない程衝撃的だった。あれから一躍、晶子先生は売れっ子作家になったんだよな。
啄木 明星の躍進もあれから始まりましたよね。明治三十三年に創刊されたわが新詩社の文芸誌「明星」。今年、7周年を迎える明星は、今や日本歌壇を代表する雑誌です! 浪漫派の天下です。正岡子規の写実派など蹴散らしてしまえ、ですよ。これも晶子先生の頑張りがあったからこそ!
白秋 新詩社を支えるために、いくつも仕事を掛け持ちしている。晶子さんの双肩に新詩社の未来がかかっている。
啄木 いやあ、ありがたや、ありがたや。
奥の部屋に向かって拝む啄木の頭をはたく俊子。
啄木 痛い!
俊子 そう思うなら君もしっかりなさい!
啄木 そんなぁ。僕の事ばっかり責めて……。だったら鉄幹先生はどうなんですかぁ!
啄木が鉄幹の事を口にして、少し気まずそうに目を背ける白秋と俊子。
白秋 先生はなぁ……。
俊子 今月号も、先生は作品をお書きにならないんですか?
白秋 そのようだ。
啄木 まだ社に来てないし、どうせ今日も花街から朝帰りですよ。ほら、自堕落なのは僕だけじゃない!
俊子にまた頭を叩かれる啄木。
啄木 痛い!
俊子 あんたと一緒にするんじゃないの!
啄木 言っておきますけど、僕の頭、木魚じゃありませんから。そんなポンポン叩かないでください。
白秋 最近の先生は、どうも不調だね。まったく筆が動かない。書けなくて苦しんでいるようだ。
啄木 同じ自堕落でも作品を書いている僕の方が優秀じゃないですか。
俊子 こら! ……でも、確かにここ最近の先生は少し心配です。往年の勢いがなくなったというか。明星も、晶子先生の実力で、注目を浴びてはいますが、鉄幹先生がまったく働かなくなって、経営は火の車。晶子先生が他社で書かれている原稿料でなんとかもってはいますが、このままだと、うちの会社は、危ないわ。
白秋 めったな事を言うものじゃない。心配なのはわかるがね。
その時、オフィスの奥から、徹夜明けでボロボロの晶子(30)が出てくる。手には封筒に入った原稿を持ちフラフラと歩いてくる。末子がそばに付いている。
白秋 晶子先生!
晶子 やっと出来た! 白秋君、悪いけどこの原稿、未来社さんに渡して。編集さん午後一番に来るから。
晶子に原稿を渡される白秋。
白秋 はい!
晶子 それから末子ちゃん。コーヒーいれて、思いっきり濃いヤツ。
末子 ただいま!
給湯室に飛んでいく末子。
晶子 まだ原稿入れてないのは?
啄木 あっ……。
恐る恐ると言った感じで手を上げる啄木。そんな啄木にニッコリほほ笑む晶子。
晶子 啄木君。言われなくても、わかってるわよね?
啄木 はい!
晶子の笑顔に恐怖を感じた啄木は、俊子の注意とは打って変わって、急いで机に座り執筆を開始する。そんな啄木を尻目に原稿チェックをする晶子。
晶子 今月号の表紙は……悪くはないけど……。
白秋 ダメでしょうか?
晶子 いえ、いいわ。あんまり煽情的だとまたおかみにやいのやいの言われるもの。寛さんが、女性の裸を表紙に乗せた時は、爆発的に売れたけど、あとが大変だったし。
白秋 うちの大将、世間の注目を集めるようなことはうまいけど、後始末は全然しないし。嫌なことは全部俺たちに押し付けて、自分は遊びに行っちゃうし。
晶子 はいはい。校正は君たちに任せるから、印刷所には……ああ、人手が足りない!
白秋 しかし、求人に回す資金がわが社には……。
晶子 わかってるわ。私も頑張るから。みんなもよろしくね。特に啄木君!
啄木 はい!
晶子の笑顔にタジタジの啄木。その後もテキパキと弟子たちに指示を出す晶子。
菓子折りを持った女性・山川登美子(29))が玄関に現れる。