戯曲「奇妙なり ―岡本一平とかの子の数奇な航海―」冒頭

奇妙なり

作 竹内一郎
登場人物

岡本一平(四三)……有名漫画家
岡本かの子(四十)……一平の妻
岡本太郎……(十八)一平とかの子の息子
新田亀三……岡本家主治医、かの子の愛人
恒松安夫……岡本家秘書、かの子の愛人

武本実文……日本海軍少将
武本藤乃……武本の妻
森下雄吾……武本の側近、日本海軍中尉

桐山栄吉……箱根丸の船長、夏目漱石と兼役

田中半吉……箱根丸の乗客、兼役
田中芳江……箱根丸の乗客、半吉の妻、兼役
赤松誠一……箱根丸の乗客、兼役
まなえ……箱根丸の乗客、赤松の恋人、兼役
大木佳代……箱根丸のウェイトレス、兼役
中村幸恵……箱根丸のウェイトレス、兼役
藤田美佐子……箱根丸のウェイトレス、兼役

唯野人成……一平の妄想、「人の一生」の主人公
ため子……一平の妄想、「女百面相」の主人公
富田屋八千代……一平の妄想、「富田屋八千代を観るの記」の主人公
夏目漱石……一平の妄想、一平の師匠、桐山栄吉と兼役
菊池寛……一平の妄想、小説家、兼役
北沢楽天……一平の妄想、漫画家、兼役
下川凹天……一平の妄想、楽天の弟子、兼役
宮尾しげを……一平の妄想、一平の弟子、兼役

波の音――。
箱根丸の船上である。
甲板に、桐山栄吉が浮かび上がる。

桐山 ようこそ、箱根丸へ。私は船長の桐山栄吉と申します。本船は、一九二九年十二月九日に、神戸港を出港し、フランスのマルセイユへ向かって航行中です。現在は旅の約三分の一を過ぎたあたり。インド洋をゆったりと進んでいます。実は、この船、神戸港を出港するとき、三五〇〇人という大勢の見送りが参集いたしました。といいますのも、本船には、総理大臣の名前を知らない人はいても、この人の名を知らない人はいないと言われる、人気漫画家・岡本一平が乗っているのです。旅の目的は、ロンドン軍縮条約の取材です。日本が先進国の中でも一等国の仲間入りをするかどうかという重要な会議です。一平は、朝日新聞の記者として、取材に赴きます。本船には、一平のほかに妻のかの子、長男の太郎が乗っています。それだけならまだいい。実に奇妙な取り合わせの乗客がいるのです。ここから先は、ゴシップ好きの三人の客室係にお願いしましょう。大木佳代、中村幸恵、藤田美佐子の三人です。

三人が浮かび上がる。

佳代 この人が恒松安男(浮かび上がる)、表向きは岡本家の秘書です。ですが、実はかの子さん愛人です。

美佐子 それも一平さん公認の。

幸恵 そしてこっちが、新田亀三(浮かび上がる)、岡本家の主治医です。ですが、実はかの子さん愛人です。

美佐子 それも一平さん公認の。

桐山 一夫多妻が公の時代に、一人の妻に三人の夫がいて、一緒に船旅をしているのです。なぜ、こんな奇妙な事情になったのか、少しややこしいので、物語の冒頭にまとめさせていただきます。

佳代 実は、一平さん、絵の天才で、朝日新聞社の社員として、人気漫画を描く一方で、雑誌でも大人気。

幸恵 全集を出すと、何と一五万セットも売れる売れっ子です。

美佐子 当然、お金がたくさん入ってきます。

佳代 お金があれば、芸術家のことですから、放蕩に走ります。男の遊びといえば、呑む・打つ・買う、と相場は決まっております。

幸恵 一平さんの場合は、博打はなかったそうですが、酒に女は、浴びるほどでした。普通の妻なら、芸術家と結婚したのだからと、諦めて泣き寝入りをするところです。

美佐子 現代ではありませんよ。一九二九年、昭和四年のことです。男尊女卑の時代ですよ。そこのところお間違いのないように。

佳代 かの子さんは、嫉妬の炎がメラメラと燃え上がります。何しろ、日本文学史に異彩を放つ猛女です。激しく一平さんを攻め立てるばかりでは済みません。自らも精神を病み、救いを求め、仏教書を読み漁ります。さらに恒松さんという愛人を作り、家に引き入れます。

美佐子 そんなことは許さんと一平が言えば、問題は大きくならなかった。

桐山 一平は、自分の過ちを償う気持ちだったのでしょうか。それとも、懐の大きさを自分に問おうとしたのでしょうか。

佳代 かの子に。

幸恵 愛人と同居でもいいよ。

佳代 と、言ってしまった。

幸恵 さらに、慶応病院の主治医だった新田亀三も愛人にしてしまいます。

美佐子 普通、愛人というのはこっそりいるものですよね。

佳代 しかし、かの子さんの場合は、夫の一平さん公認――。

幸恵 しかも、一平さんのロンドンへの取材旅行にも着いてきます。二人が同行する旅費も一平さんが工面します。堂々としたものです。

桐山 なぜ、こんなにややこしいことになったのか。私の考えですが、一平さんも、恒松さんも、新田さんもかの子さんが大好きなのです。きっと、かの子さんの大きな愛に包まれて、離れられないのでしょうね。常人には想像を絶する愛なのでしょう。三人ともかの子さんが好きで好きで仕方がないから、別れられない。独占欲を超えた愛と申しましょうか。

美佐子 普通なら、親がこんな感じだと息子はぐれますよ。

幸恵 でもそうじゃない。息子の太郎は、かの子が大好きです。何しろ、かの子は尽きることのない愛の泉を持っていますから太郎にも、愛をざぶざぶ注ぎます。

桐山 かくして、この奇妙な船旅が始まったのです。

暗闇の中、どこからともなく「カリカリ」という紙にペンがこすれる音がする。
岡本一平が漫画を描いている。
一組の男女(唯野人成、ため子)が甲板で海を見ている。

ため子 日本を出て、もうどれくらいかしら?

唯野 この船が神戸港から出港したのが七日のことだったから……もう二週間以上、僕らは波に揺られている事になるね。船旅には慣れたかい?

ため子 そうね。もうだいぶ慣れた。来てよかった。見るもの、感じるもの、全部が新鮮で。狭い日本にいたら、きっと私、息がつまって死んじゃっていたもの。

唯野 家族総出でヨーロッパ旅行。我ながら思い切った事をしたものだけれど、君がそう言ってくれると、うれしい。

ため子 あなたには、本当に感謝しているわ。私の為に、ありがとう。

唯野 君の為? いや、僕の為さ……。

唯野はため子から離れると、懐からナイフを抜き出し、切っ先をため子に向ける。驚愕のため子。

ため子 何を……何をなさるおつもりなの!?

唯野 決まっている。君を、殺すんだよ! 僕はね、その為に君をこの旅行に連れてきたのだ。日本を離れ、遠い外国の海の上ならば、警察の手は届かない。そして現在、船はインド洋のど真ん中を航行中だ。死体を海に捨てれば二度と見つからない。完全犯罪さ!

ため子 そんな、どうして、どうしてです!? 一平さん!

唯野 どうしてだって? それは、かの子、君が……!

ナイフを振り上げ、ため子に振り下ろそうとする唯野。
その時、「コンコン」と言うノックの音がする。
ノックの音と同時に今まで続いていた「カリカリ」という音は止まり、唯野とため子の動きもピタリと止まる。

恒松(声) 先生。一平先生。いらっしゃるんでしょ?

明かりが付く。
そこは箱根丸の一等客席の一室。
部屋の机でペンを持った岡本一平が慌てた様子で声がした方を見ている。一平は描いていた原稿を引き出しにしまう。
唯野とため子は石像のようにピタリと止まっている。

一平 開いているよ。

部屋の外から恒松安夫と岡本太郎が入ってくる。
二人には石像のような唯野とため子は見えていない。

恒松 お仕事中でしたか?

一平 次の停泊地、アデン港に着くまでに仕上げたいものがあってね。

恒松 アデンから日本に送るんですか? 人気漫画家は旅行先でも大変ですね。でも、そんな急ぎの仕事って、ありましたっけ?

一平 いや、個人的な仕事でね。

太郎 パパ! クリスマスに一人部屋にこもって仕事だなんて寂しすぎます。今、レストランデッキでパーティが開かれているんですよ。異国の地、しかもこんな船の上でのクリスマスパーティなんて素敵じゃありませんか! 僕達も参加しましょうよ!

恒松 お忙しいのは十分に承知していますけど、太郎君の言う通りですよ。先生のスケジュールは、この不肖、恒松安夫が管理しています。今日くらいはパーティを楽しまれたら?

一平 太郎そういえば、ママは?

太郎 えっ? ママは……。

恒松の顔を見る太郎。

恒松 かの子さんでしたら、先に新田先生とパーティ会場に行ってらっしゃいます。

一平 そうか。

一平は新しい紙を取り出し、そこに漫画を描き始める。

一平 悪いが、パーティは君たちだけで楽しんできたらいい。

太郎 パパー

一平 私の事は気にしなくてもいい。

太郎たちの方を見ずに原稿に没頭する一平。

太郎 気が変わったら、来てくださいね。家族でクリスマスを過ごしましょうよ。

恒松に促されて、太郎は恒松と一緒に部屋を出ていく。
二人がいなくなったのを確認して、一平は机の引き出しから先ほどまで描いていた原稿を取り出す。
無言でそれをじっくりと見てから、一平はビリビリと破りだす。

唯野 まって下さい!

ため子 何やってんのさ!

今まで石像のように固まっていた唯野とため子が一平に詰め寄る。
一平は二人にかまわず破られた原稿を捨てる。

唯野 ああ、僕とためちゃんの大芝居が描かれた傑作が。

一平 何が傑作だよ。あんな三文芝居。

ため子 三文芝居? それはないでしょう? 先生が描いたんじゃないか!

一平 尚更だよ。こんなもん天下の漫画家、岡本一平の名前が泣くよ。

ため子 自分で天下の漫画家とか言っちゃっているよ、この人。

唯野 作者なんだから登場人物をもっと大事に扱ってくださいよ。

一平 お黙んなさい。まったく、単なる妄想のくせに、日に日にやかましくなるね君たちは。

唯野 僕らは妄想とはいえ、そんな偉大な漫画家さんが描いたキャラクターですよ。命が宿っても不思議じゃない。

ため子 そうそう。それに私と唯野さんが登場した作品は、先生の作品の中でも人気作品中の人気作品。

ため子は芝居がかった仕草で唯野の方を指し示す。ポーズをとる唯野。

ため子 日本で最初の長編連載漫画「人の一生」主人公、唯野人成!

ポーズをとる唯野。
ポーズをとき、今度は唯野が芝居がかった仕草でため子を指し示す。
唯野 映画小説と銘打ち、活動写真を漫画にしようとした意欲作「女百面相」主人公、ため子! 先生は単なる一枚絵の風刺画だった漫画に動きという表現を付けた。それがどれだけ画期的だったか。

ため子 クローズアップに俯瞰。後の漫画文化に影響を与える表現を先生は日本で初めて考え出した。

一平 なんだい? 後の漫画文化って?

ため子 (気付いて)あら、それはこっちの話……。

唯野 ともかく、僕らは先生の妄想ですけどね。先生が生み出したれっきとした生きている妄想ですよ。

ため子 だからそう邪険にしなさんな。

一平 お前さんたちは私にしか見えていないし、人様がいるとこでは大人しいけれど、私にはうるさくてしょうがないんだよ。せめて仕事中は静かにしておくれ。

唯野 仕事中? 仕事中だったんですか?

ため子 さっき恒松さんがおっしゃっていた通り、急ぎの仕事はあらかた片付いたんじゃございません?

唯野 さっきの描きかけの漫画には、僕とためちゃんを登場させていたけど、登場人物の名前は僕らの名前とはちがったような……。確か僕が「一平」でためちゃんが「かの子」。一平? 一平って先生の事ですよね。そういえば、さっきの作品はかの子さんという人を一平さんが殺そうとしていた。

白々しく話す二人を一平はジロリと睨む。

一平 何が言いたい?

唯野 いえ、別に。

ため子 私等は単なる妄想ですし。

一平は二人を睨みながら近寄ってくる。

一平 君たちが現れたのは、この船に乗ってからだったね。私が生み出したキャラクターで妄想である君たちが、まるで生きているみたいに私にちょっかいを出してきた。この船に乗った時からだ。合点がいったよ。

唯野 何がです?

一平 君たちの正体さ。

ため子 正体?

一平 君たちは私の中にある罪悪感のような感情が具現化した存在だろう。

唯野 罪悪感?

一平 お前たちは知っているんだ。かの子は私の妻だ。岡本かの子。私の愛しい恋女房。そして、私が殺そうとしている女さ。

――暗転

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