戯曲「アレクサンドル昇天 青木繁・神話の棲み処」冒頭

アレクサンドル昇天 青木繁・神話の棲み処
作 竹内一郎
登場人物

青木繁(22)
坂本繁二郎(22)
福田たね(19)

葉室玲一(27)
蒲原有明(39)

小谷喜六(32)

小谷とし(36)
浜本さくら(24)
田中徳三(35)
田中すず(11)
山田順平(31)
山田ふく(29)
後藤うめ(26)
岩下茂助(19)
岩下さと(17) 。

坂本繁二郎(老繁二郎)(65)
松尾清志(38)
柿本スミレ(26)

プロローグ

暗闇。
どこからともなく潮騒の音が聞こえる。
絵筆を持った一人の老人がポツンと浮かび上がる。
老人の名は坂本繁二郎(65)(以下老繁二郎)。
日本画壇の巨匠と言われる洋画家。
老繁二郎の前にはスケッチブックが置かれたイーゼル(客席からは裏面で何が描かれているか見えない)がある。
それをジッと見たまま動かない老繁二郎。
ノックの音がして、潮騒がピタリと止む。
明かりが付く。
そこは絵画や絵の道具が雑然と置かれたアトリエ。
スケッチブックを閉じて片づける老繁二郎。
1947年7月、福岡県八女市にある坂本繁二郎邸、そのアトリエ。
そこに女中の柿本スミレ(26)が入ってくる。

スミレ 先生。お客様がいらっしゃいました。
老繁二郎 客?
スミレ 小倉から取材にいらした新聞記者が……。
老繁二郎 ああ、そういえば、そんな予定が。応接間にお通しして……。

老繁二郎が言い終わる前に、記者の松尾清志(38)がズカズカと入ってくる。
物珍しそうにアトリエを見回す松尾。

松尾 おお。ここが日本洋画界の巨匠、坂本繁二郎画伯のアトリエですか。このアトリエで数々の名画が生み出されたと思うと、感慨の念にたえませんなぁ。
スミレ あ、困ります。勝手に入られては……。
松尾 (スミレを無視して)ああ! あなたが坂本繁二郎先生ですか? 日本画壇三巨匠の一人、坂本繁二郎先生にお会いできて光栄の極みです。来月、東京で開催される「三人の巨匠展」に先駆けて、本日は、三巨匠の一人、坂本画伯の絵画にかける情熱とその才能の源泉について取材をさせていただきに参りました。 今や、坂本繁二郎といえば、安井曾太郎、梅原龍三郎と並ぶ日本画壇の巨星(メモを取る)。
老繁二郎 君、勝手に進められては困るよ。
松尾 ああ、申し訳ありません。緊張のあまり、自己紹介を忘れておりました。お初にお目にかかります。私、昇陽新聞、小倉支局文化部記者の松尾清志と申します。いやあ、遠かったですよ、ここまで。小倉から鹿児島本線で博多へ40分。博多から西鉄電車で久留米へ40分。久留米から、この八女まで、バスでまた40分。このバスが1時間に1本しか来ないんです。本当に田舎ですね。田んぼと畑しかありません。太平洋戦争の終戦から2年、どこにも爆弾が落ちた穴ぼこがないということは、アメリカのB29も、ここに爆弾を落としても火薬の無駄使いだと思ったのでしょうかね。
スミレ あの……。
松尾 いやいや、私は坂本繁二郎先生をむしろ持ち上げたい気持ちなんです。大方の有名画家は、大手の画商や美術評論家との付き合いを大事にするため、東京に住みたがるものです。坂本先生は、この八女にアトリエを構えて描き続けていらっしゃる。誰にも媚びていない。実力があるということです。
老繁二郎 お褒めにいただいて、恐縮です。

老繁二郎に名刺を渡す松尾。

松尾 (外を見て)すごい数の赤とんぼですね。こんなにトンボが飛んでいる風景、私初めて見ました。人口の20倍以上はトンボがいるんでしょうなあ。それから、アトリエの周りには、白、赤、紫と色とりどりの百日草が咲き乱れて、実に長閑です。
スミレ 百日草は先生がお好きで、自分で植えられたんですよ。
松尾 私は、遠くからこのアトリエを眺めましてね、一幅の風景画を見ているような錯覚に襲われました。
老繁二郎 こんな絵の具臭い部屋で話もなんだろう。応接間に……。
松尾 いえいえ。ここで、いや、ここがいいんです。数々の名画が生み出されたこのアトリエこそ、先生の源に迫るにふさわしい舞台ではありませんか。
老繁二郎 私の源ですか……。

老繁二郎は小さく笑い、松尾の名刺と筆をしまう。

老繁二郎 いいだろう。座りたまえ。スミレ君椅子を、あと悪いがここにお茶を。
スミレ はい。

松尾をちらっと見て、部屋を出ていくスミレ。

スミレ (松尾の背中に)おしゃべり。

だが、松尾は意に介していない。
アトリエの脇に椅子を持ってきて向かい合って座る老繁二郎と松尾。

老繁二郎 取材か。少し心配だな。私は口下手でね。
松尾 そこは記者の腕次第ですよ。その点については大丈夫です。

自分の腕を叩く松尾。

老繁二郎 お手柔らかに頼むよ。
松尾 じゃあ早速、ズバリお聞きします。坂本先生の創作のエネルギー、その源泉とは何なのでしょう?
老繁二郎 源泉といわれてもねえ。
松尾 なぜ、先生は絵をお描きになるのですか?
老繁二郎 何故……? 一言では……。

お茶を持ってアトリエに戻ってくるスミレ。
老繁二郎、松尾の順にお茶を置く。
老繁二郎には優しく、松尾にはぞんざいに。

松尾 難しい? でも、敢えて言えば――。

急に大声を出した松尾、驚くスミレ。
松尾の顔を訝シゲルに見る老繁二郎。
それを見計らったようにニコリと笑う松尾。

松尾 それは、嫉妬ではありませんか?
スミレ 何を!
老繁二郎 嫉妬?

松尾 私は、ある絵を見て、坂本先生への取材を決意しました。その絵は傲慢なまでに情熱に溢れ、かつ生命の息吹を感じさせた。あの絵には人間の、いや、天才の全てが詰まっいている。天才にしか描けない世界がそこにある。

老繁二郎 ……それは、私の絵ではないね。
スミレ 先生。
松尾 ええ、あなたの絵ではない。あなたは確かに巨匠だ。それは万人が認める所です。しかしそれは、絵の玄人たちの評価だ。失礼を承知で言わせてもらえば、あなたの絵は、私の心になにも響かなかった。枯れた、枯淡の境地を描いている。まるで水彩絵の具で描いたような油彩だ。技巧がまったく感じられない。みたまま、感じたままを素直な心で描いているのみだ。そして、もちろん上手い。だが、私の様な素人の目には、あなたの絵は薄く、ぼんやりとして見える。凡作にしか見えんのです。(この台詞中、スライドで、坂本繁二郎の晩年の作品がスライドで写される)
スミレ あなたね!

松尾に食って掛かろうとするスミレを止める老繁二郎。

松尾 坂本先生を愚弄する気はさらさらないのです。むしろ尊敬している。あなたの在り様は、人としてとても面白い。あなたの絵、私が凡作と呼んだそれらには、一つだけ見るものに語り掛ける感情があった。それが嫉妬。嫉妬の炎に焼かれながら、それでももがき続ける人間は滑稽であり、同時に美しいとさえ私は思う。
老繁二郎 君は、私が天才への嫉妬を糧に絵を描いていると言いたいのだね。

その問いにあえて答えず老繁二郎を見つめる松尾。

松尾 私はね、坂本先生、そんなあなたの在り様がまるで悲喜劇だと感じるのです。美しくも、哀しく、時に滑稽。大衆は、そんな悲喜劇を好む。私は先生の中にある悲喜劇を記事にしたい。読者からは、大きな反響があって、巨匠三人展の博多会場は毎日満員札止めってことになりますよ。
スミレ 先生! この無礼な人、追い出しましょう! 取材なんて受けることありません!
老繁二郎 ……松尾君といったかね。君が見た傑作の作者の名を当ててあげよう。その作家の名は、「青木繁」だろう? そして、作品の題は『海の幸』。
松尾 さすが先生。ご明察です。
老繁二郎 青木と私は久留米で同郷、そして同年齢。
松尾 (食って)小学校から、一緒に絵を学び、青木は東京美術学校、あなたは太平洋画研究所へと進み、ずっとライバルでもあり、得難い友人だった。当然、比べられることも多い。
老繁二郎 私が彼に嫉妬を抱いていたと指摘する人間は少なくない。もっとも、君の様に直裁な物言いをしてきた者は初めてだが。
松尾 恐れ入ります。あなたは若い頃、青木氏と共に過ごした。親友と言ってもいい。あなたにとって青木氏は、越えられない壁なのではないですか?
老繁二郎 越えられない壁……そうだ。青木はもう死んでいる。その意味で、私は彼には終生勝てない。いや、勝ちようがない。
松尾 誤魔化さないでいただきたい。あなたは若干28歳で亡くなった青木氏に対して、今も嫉妬している。

老繁二郎はお茶を手にとると、それをゆっくりとすする。

老繁二郎 君は青木繁という人物を、どこまで知っているんだい?
松尾 何冊かの書籍に書かれた経歴以外は何も知りません。ですが、彼の絵を見て、彼の人となりはある程度わかったつもりでいます。
老繁二郎 ほう。
松尾 私は、彼の最高傑作と謳われる「海の幸」を見た時、彼の底知れぬ才能を感じました。そして確信しました。青木繁という人物は、神話的な天才、いや怪物であると。
老繁二郎 怪物……。

老繁二郎は急に笑いだす。

松尾 なんですか? 何か、間違っていますか?
老繁二郎 いや失敬。神話的な怪物か。青木が聞けばさぞかし喜んだことだろう。奴は、神話に憧れた。いや、自ら神話になりたがっていた。青木は自分の望みを果たしたのかもしれない。だが……天下の昇陽新聞記者様も、人間を随分薄っぺらにみるんだな。
松尾 なんですって?
老繁二郎 君は、青木の事を、怪物と言った。それは誤りではないが正確ではない。もし、青木が単なる怪物なら、あれほど苦しまなかったはずだ。彼は誰よりも人間として、苦しんでいた。
松尾 人間として……?
老繁二郎 「海の幸」には、むしろ人間としての彼の全てが描かれている。だからこそ、見る人の胸を打つんじゃないのかい?
松尾 待ってください。あの絵には、何か秘密があるのですか? 「海の幸」は、確か、あなたと青木氏、そして青木氏の恋人、福田たねが千葉県の布良に滞在した時に描かれたもの。そこで、何かあったのですか?
老繁二郎 そうだ私について語るより、あの絵がどうやって描かれた物かを話すほうが、かえって近道なのかもしれない。さて、何から話したものか……。

その時、どこかから潮騒が聞こえる。
その音は松尾とスミレには聞こえていない。

老繁二郎 ああ、潮騒が聞こえるな。
松尾 えっ? 潮騒? 波の音ってことですか?
スミレ 先生。ここは、海から距離がありますから、潮騒なんて……。

老繁二郎は、目を細め遠くを見ている。
何かの思い出に包まれているに違いない。
潮騒の音は大きくなる。

――暗転

1904年、7月。房州布良の浜。
漁師たちによる、「天地創造の唄」がどこからともなく聞こえてくる。

〽天地が生まれた アラライ アラライ
イザナギ イザナギが生まれた
イザナギ イザナミは神様だ アラライ
二人はタカマガハラに降り 結婚して結ばれた
ヤシロの国を生み 山の神、海の神を生んだ
アラライ アラライ アラライ アラライ

イザナミは、火の神を生み 死ぬ アラライ
イザナギは、イザナミを恋しがる
死者の世界に連れ戻した アラライ
イザナギは左目を洗う アマテラスオオミカミを生む
右目を洗う スサノオノミコトを生む
アラライ アラライ アラライ アラライ

潮騒の音がするその場所で、坂本繁二郎(22)がスケッチをしている。
そこにスケッチブックを持ったたね(19)がやってくる。

たね 坂本さん。繁二郎さん。
繁二郎 やぁ。福田さん。もう帰るのかい?
たね なんだか気分が乗らなくて。
繁二郎 あいつは一緒じゃないのかい?
たね あの人なら、今日も、「神は俺に未だ描けと言わない」とかなんとか言って、朝から呑んでいるわ。
繁二郎 困ったもんだな。何のために房州の布良までスケッチ旅行に来たと思っているんだ。
たね そう言われたらこう返すにちがいなわ。(青木の物まねをしつつ)「俺は、俺にしか描けない傑作を一つ描くためにここに来たのだ。お前たち凡人は何千枚と駄作を描くがいい。俺はそんなものに用はない」とかね。
繁二郎 言いそうだな。
たね へ理屈ばかり上手くなって、肝心の絵は全く描こうとしないんだから、あの人も、坂本さんの勤勉さを見習うべきよ。
繁二郎 そうは言っても、あいつの才能は天が与えたものだ。凡人が努力で追いつけるようなものではない。
たね いくら才能があっても、絵を描かない画家を画家って言うのかしら? 私。最後は努力の人が勝つと思うな。
繁二郎 手厳しいな。

繁二郎が苦笑していると、遠くから怒号が聞こえる。
誰かが喧嘩しているような音。
それに気づいて、繁二郎とたねは顔を見合わせる。

繁二郎 この声……。青木だ。
たね 小谷さんの家から……また?

呆れ顔のたね。
繁二郎は急いで絵の道具を片付けて、たねとともに声の方向に駆けていく。

――明転

小谷家。漁村である布良の網元で、村の多くの漁師たちのたまり場の様な場所になっている。
家の外では漁師の妻や娘たち、山田ふく(29)後藤うめ(26)岩下さと(17))が網を繕ったり、洗濯したりして談笑している。
その横で一番年少の田中すず(11)が鞠をついてあそんでいる。
騒動はその家屋の中から聞こえる。
女たちは時々家の中を覗いては談笑している。
家屋の扉が開き、中から一人の男、青木繁(22)が転がり出てくる。
それに続いて、四人の漁師、田中徳三(35)山田順平(31) 岩下茂助(19))が出てくる。全員酒に酔っている。
青木は身はを起こして漁師たちを睨みつける。

青木 うるさい! てめえは黙って俺の言う通りにしろ!

青木は立ち上がり、一番下っ端の茂助の着物の中に手を突っ込む。
そしてその身体を荒々しく触る。

茂助 このっ!
青木 暴れるな馬鹿野郎! もっと触らせろ!
順平 止めろ! 変態かお前は?

順平は茂助から青木を引きはがす。
羽交い締めにされながら暴れる青木。

順平 茂助、大丈夫か?(青木に)お前、そういう趣味だったのか?
青木 違う! お前(茂助)、俺に自分の絵を描いてくれと言ったな。だったら触らせろ。絵を描くって事はな。感じる事だ! 骨格や身体の感触、見てくれだけじゃない。全部を感じなきゃいい絵は描けない。己の五感で感じる全てをキャンバスにブチ込む。これが描くということだ。この天才、青木繁がお前の絵を描いてやろうといっているんだ! そうだ。味覚も知った方がいい絵が描ける。舐めさせろ!
茂助 やめてくれ。気持ち悪い。
順平 茂助は実は、好きな女がいるんだ。その女に告白する前に、隠れた才能が開いたりしたら、女がかわいそうだ。
茂助 順平さん!
青木 俺は生半可な気持ちでは描かん。全身全霊で描く。命がけで描く。そういうことだ。

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