戯曲「漫画の祖、ふたり-楽天と一平-」冒頭

漫画の祖、ふたり

登場人物

北澤楽天  漫画家

岡本一平  漫画家

下川凹天 楽天の弟子

島田啓三 楽天の弟子

麻生豊  楽天の弟子

金岡基樹 時事新報記者

原口宗助 時事新報記者

野口明美  時事新報記者 

桜  高級料亭

「夢屋」芸者頭

桔梗  高級料亭「夢屋」芸者

菖蒲 高級料亭「夢屋」芸者

紅葉 高級料亭「夢屋」芸者

椿  高級料亭「夢屋」芸者

大隈重信  日本国内閣総理大臣

佐野涼子 大隈の秘書

宮尾しげを 一平の弟子

小野寺真澄 朝日新聞記者

夏目漱石 小説家

北澤いの

粕谷玉

岡本かの子

はね子      謎の少女

斎藤源吾 時事新報広告主 

林美代子 齋藤の秘書

田辺正子 時事新報広告主

福沢諭吉(幻想)     時事新報創設者

田吾作      楽天のキャラクター

杢兵衛      楽天のキャラクター

灰殻木戸郎    楽天のキャラクター

丁野抜作     楽天のキャラクター

茶目       楽天のキャラクター

欲野深造     楽天のキャラクター

一九一五年 大正四年  東京神田 九月」

   暗闇の中、賑やかな三味線と太鼓の調べが聞こえてくる。徐々にその音楽は大きくなってきて、可憐な出で立ちの十人程度の芸者が現れ、舞う。

   彼女たちが一通り舞った後、周囲が明るくなる。

   そこは、神田の高級料亭「夢屋」の大広間である。

   背後の壁には「時事新報、売り上げ部数記録更新記念」と書かれた垂れ幕がされており、3人の身なりの良い男たち斎藤源吾、林美代子、田辺正子が、酒を飲みながら芸者の舞いに喝采を送っている。彼ら3人は時事新報の広告主である。

   3人の広告主にお酌をして接待しているのは、時事新報の記者3人、金岡基樹、原口宗助、野田明美である。

桜 さあさ、皆さま、盛大に飲んで楽しんでくださいましよ。今日、時事新報の大成功は広告主の皆さまがあってのことでございます。

齋藤 わが社は、火薬を扱っております。欧州を二つに分けた大戦争が勃発し、うちの火薬は飛ぶように売れ、羽が生えたように値があがります。

美代子 売れて売れて、私のような下っ端の秘書にまで賞与が出るのですよ。

齋藤 広告はいくらでも出しますよ。金岡君、一杯どうだね。

金岡 そんな、もったいない。ありがとうございます。いただきます。

原口 お酒が足りなくなってきましたね。お銚子もう八本!

桜 はいはい、ただいま!

金岡 時事新報が現在あるのは、皆さん広告主のお蔭です。

齋藤 時事新報があるのは私たちのおかげとは、嬉しい事を言ってくれるじゃないか。かの福沢諭吉翁が創刊した日刊新聞! その伝統ある時事新報の今日を支えていると言うのが我々だと言うのは君、大変に光栄な事だよ!

金岡 恐れ入ります。

桜 田辺様のお仕事は、西洋に軍馬を輸出することでございましたね。

正子 弊社の軍馬は優秀で、英国でもドイツでも取り合いになるほどです。

金岡 私どもが、記事を書き、社会に意見を発信できるのは、ひとえに広告主の――。

明美 お力添えがあってのことでございます。

原口 広告あっての、ジャーナリズムです。

正子 新聞記者の皆さん、よいしょし過ぎです。よいしょも過ぎれば嫌味となります。時事新報の隆盛を支えているのは我々ではありません、誰の目にも明らかです。

斎藤 田辺さんの言う通り、時事新報がこれだけ売り上げを伸ばしたのは、彼の、あの北澤楽天大先生のおかげだ!

正子 まさに!

   舞台中央で踊っていた芸者集団の間から威風堂々と北澤楽天のイメージが現れる。

   以下、楽天の半生が説明されるが、舞台中央で踊る芸者と共に、楽天のイメージが説明に合わせて動く。

斎藤 北澤楽天、本名、北澤保(やす)次(じ)、明治9年、一八七六年生ま    れ。

美代子 幼い頃より、絵に興味を持ち、

田辺 麹町永田町の大幸館という洋画研究所で絵を学ぶ。

齋藤 当時、大幸館には、後に日本洋画壇を背負って立つ面子がいたが、中でも楽天はその高い才能と、早描きで知られていた。

美代子 何しろ仲間が三週間かかって仕上げる課題の絵を、彼は一週間で仕上げた。

正子 あまった二週間を、ポスター絵や挿絵描きのアルバイトに費やしていたそうです。

齋藤 このまま、順当にいけば、画家、北澤保次が生まれていただろうが、そうはならなかった。

田辺 楽天はあの方に出会ったのでした。

   絵を描いている楽天のイメージの傍に、福沢諭吉のイメージが近づいてくる。

福沢は楽天の描いている絵に見入る。

福沢 すばらしい!

   桜が斎藤達に訊ねる。

桜 あれはどなたです?

齋藤 明治を代表する啓蒙家・福沢諭吉翁です。

正子 残念ながら、一四年前に亡くなられました。

   福澤諭吉は幻想である。

美代子 福沢先生が書かれた明治時代のベストセラー『学問のすすめ』の冒頭を知らない日本人はいません。どうぞ――。

正子 天は人の上に人をつくらず! 人の下に人をつくらず!

桜 その言葉、何回聞いてもしびれますね。

金岡 あなた、その言葉の下に付いている言葉、知っていますか?

正子 その下って――。

原口 天が人に上下を作っていないのに、この世に人の上下があるのは何故か――。

桜 この世には、勉強する人としない人がいる。勉強するかしないかで差がつくといっています。

明美 ということでこの本は「学問のすすめ」というタイトルなのです。

金岡 そして、明治・大正をけん引するジャーナリズム・時事新報を創刊された。

   福沢は楽天に近づいていく。

福沢 君の機知にとんだ発想。凡俗には想像もできない着眼点。キャラクターの造形力。君の絵からは、それが伝わってくる。日本の絵画に新たな可能性を芽吹かせてくれる。そんな予感がするんだ。

楽天 福沢先生。

福沢 西欧には、政治や社会を批判し、風刺する絵のジャンルがある。絵をもって世の中を動かす。風刺画というものがあるのだ。

楽天 風刺画、絵をもって世の中を動かす。そんな事が?

福沢 できる! 君には、君の描く絵には、その力がある!

   福沢は楽天の肩を力強く叩く。

正子 日本ではまだ知られていなかった風刺画。楽天にその才能があると見込んだ福沢諭吉は、横浜の外国人居留地から発刊されていた英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社を楽天に紹介し、楽天はその新聞社に入社する。

美代子 異人さんの会社に入社されたんで?

   楽天は力強く絵を描く。その背中を福沢は頼もしそうに見ている。

楽天 面白い! 世界にはこんな絵の描き方があったのか!

正子 ボックス・オブ・キュリオス社で、欧米諸国、すなわち世界の趨勢にふれ、楽天は福沢諭吉に認められた才能をドンドンと開花させていく。

福沢 とてつもない才能だ。まさに大天才だ。

齋藤 楽天の天才ぶりはまだまだこんなものじゃない。一八九九年、福沢は自身が創刊した新聞、時事新報に楽天をスカウトする。

   楽天を見守っていた福沢が彼に近づいてきて、2人は固い握手をする。

   福沢はいなくなる。

金岡 当時まだ二四の若者に50円もの月給を出したというから、その期待の高さもうかがいしれよう。

正子 50円ですって?!

   正子は仰天する。

   芸者たちが解説に加わる。

桔梗 ちなみに一八九九年、明治32年の50円は――。

菖蒲 小学校の先生やお巡りさんの初任給が月9円位。一人前の大工さんで月20円。

紅葉 そう考えると、明治の1円は、平成の2万円位の感覚ですか? という事は50円は約百万円? 月給百万円?

桔梗&菖蒲&紅葉&椿 えっ!

菖蒲 24の若造に月給百万円?

紅葉 うらやましいです。

桔梗 そりゃあドケチな桜姉さんが、あんなに小さくなっているわけだ。

   芸者たちは顔を見合わせて笑う。それを見て桜は怒る。

桜 アンタたち! 油売らずに仕事しなさい! 手が動いてないよ。

芸者たち はーい!

   芸者たちは踊りに戻る。

金岡 しかし、高額な賃金に見劣りしない活躍を楽天はしていく。その独特な着眼点と発想力で、政治、社会を風刺し揶揄し、そして糾弾した。

原口 時事新報社に入社してから6年後の明治38年――。

明美 時事新報と並行して、楽天は新たな漫画雑誌出版に着手する。それが、これ。

   美代子が舞台上部のスクリーンを指さすと、そこにスライドで東京パックの表紙絵が映し出される。

齋藤 東京パック。これは当時の民衆に大変な支持を受けた。

正子 何せ、当時としては異例の十万部という部数をたたき出したのだから、その影響力の高さもうかがえます。

   東京パックの漫画がスライドに次々映し出される。

桜 新聞の部数はうなぎのぼり。出した雑誌は大当たり。北沢楽天には怖いものなし。政治家にだって、言いたい放題だった。

金岡 これをご覧ください。

   斎藤が舞台上部のスクリーンを指さすと、そこにスライドで楽天作「政海の産物」が映し出される。

正子 何ですかコレ? 海?

美代子 でも、魚の顔が全部、人の顔ですね。

斎藤 これはな。タイトルを「政海の産物」という。政界、つまり政治の世界の「カイ」を海の「カイ」に引っ掛けて、政治家を魚類に例えて揶揄した風刺画だ。ごらん。岩場にオットセイがいるだろう? あれは伊藤博文だ。

   舞台中央の楽天は芸者たちと踊りながら、面白おかしく漫画の解説をする。

楽天 伊藤オットセイ、この獣は水陸両用なり。海産物中最も重要高価なものにして、遠く欧米に、あるいは朝鮮に、都合次第で適所にはしり、出没自在なり。その性すこぶる牝を愛す。

   楽天の文句を聞いていた全員がドッと笑う。

原口 あそこのタコ、あれは山県有朋。

楽天 山県タコ、その性ヌラクラにして補足しがたし。八方手を広げて、子分を取り込み、味方を吸いつける力、最も強し。

   再び全員笑う。

明美 あのマンボーは大隈重信です。

楽天 大隈マンボー、この魚は身体の全部頭脳にして、口は最も達者なれども、腹も腰も足もなし。

   全員大爆笑。

正子 舌鋒鋭く、そしてユーモアたっぷりに当時の政界を風刺していますねえ。

斎藤 もちそん、反発がなかったわけじゃない。一時期は内務大臣の命令で、楽天の描いた風刺画は出版差し止めとなった事もある。だが、楽天は決して自分を、己の筆を曲げる事はなかった。

美代子 彼の風刺画は民衆の人気を味方につけ、ついには時の権力者たちを黙らせるほどの影響力を持つにいたったのですね。

金岡 楽天は自身の作品を「漫画」と称した。この時代、在来のポンチ絵は、洋画や日本画よりも数段低いモノとして見られていた。

原口 そんな中で楽天はポンチ絵とは一線を画すものとして「漫画」という一大ジャンルを確立したんだ。

金岡 楽天は、漫画の祖といってもいい人物である。

   楽天の半生の解説が終わり、楽天のイメージは消える。

   楽天の半生を解説していた3人も、元の酔っ払いに戻る。

   その時、接待をしていた明美の尻を、齋藤が撫でる。

明美 きゃあ! 何をするんですか!

齋藤 ああ、ゴメンゴメン。酔っぱらって手が滑っちゃったよ。これは失敬。

明美 手が滑ったって、そんな事あるわけないじゃないですか!

金岡 まぁまぁまぁ! 野口君! こっちに来なさい。

   金岡は明美を端っこに引っ張っていく。

金岡 こらえてよ。野口君。

明美 でもあの人、私のお尻を触って。

金岡 広告主さまのご機嫌と君のお尻、どっちが大事か、君もわが社の一員ならわかるだろう?

   金岡は明美をほおって、3人の接待に戻る。明美は憤懣やるかたない。

そんな明美を慰めようと原口が近づいてくる。

原口 しょうがないよ。今はああいう成金が幅を利かせる時代だ。去年、西洋で大きな戦争が起こってから、特需やらの好景気で、ああいった輩が増えたからね。

明美 所詮この世は金を持っている奴が大きな顔をできるのよね。

桜 時事新報だ、大新聞とおだてられちゃいますが、ああやって、広告主さまのご機嫌をとらないと、自由に出版するお金すらないのですから。

原口 見ろよ。金岡さんのあの必死な顔。

桜 あれでも、昔は正義感に燃えた立派な記者だったらしいわね。

明美 納得できません! 私は、弱者を理不尽から救うために新聞記者になったんです。こんな場所で、お尻を触られるために、時事新報に入ったんじゃありません。

桜 あんたはまだ若い。理想は理想、そろそろ現実を受けいれる術を身につけた方がいいわよ。金岡さんのあんなザマを見習えとは言わないけど。

明美 楽天先生は、理想を追い求めたからこそ、今があるんじゃないですか! 弾圧されて出版差し止めの憂き目ににあっても、それでも筆を曲げないで、理想を追い求めたからこそ、あれだけの影響力を持つにいたったんです。

原口 君、楽天先生を過大評価しすぎだぜ。

明美 でも皆さん楽天先生をあんなに褒めてらっしゃったじゃないですか。

原口 所詮漫画は庶民の鬱憤のガス抜きでしかない。

桜 ちょうどいいうっぷん晴らしだから、お上もお目こぼしをしてくれているのよ。たかが漫画ごときに目くじらを立てる事はないと、お偉いさんも取り締まりに本気にならない。確かに、楽天先生のおかげで、時事新報は売り上げを伸ばしたかもしれない。でも、漫画にはそんなに大げさな力はないわよ。

明美 でも……。

   明美が反論を言いかけた時、夢屋の玄関の方で声が聞こえてくる。

楽天の弟子の下川凹天、島田啓三、麻生豊、が入ってくる。

凹天 遅くなりました。楽天先生をお連れしました。

楽天 いやいや今日の絵は手間がかかった。終わったのが、ついさっきだよ。君たちも、加わり給え。(桜に)この三人が、下川凹天、島田啓三、麻生豊、私の漫画の弟子たちだ。今は私の弟子に過ぎないが、将来は日本の漫画を背負って立つ才能あふれるものばかりだ。

凹天 先生はいつもそうやって、私たちをおだててくださいますが――。

島田 結局、毎日徹夜仕事を上手にやらされているんだよな。

麻生 私たちも好きで、こき使われているんですけどね。

金岡 時事新報のドル箱諸君の到来だ。(原口、明美に)我々は、席を譲るとしよう。

原口 読者は、我らの書く記事を読みたくて時事新報を買うのではなくて、楽天先生の描く面白い漫画を読むために、買っているのですから。

明美 漫画家さまさまです。

桜 そんな卑屈にならないの。浮世は現実抜きには渡れないわ。世の中に新聞は数々あれど、ニュースはそんなに違わない。記者が工夫を凝らしても、文章の部分には大きな違いはでない。加えて、新聞を読めるような学のある人は限られている。だったら、面白い漫画の載っている新聞を買ってくれと子供は言う。財布の紐はどこの家でも女が握っている。子供にせがまれれば、結局言いなりになってしまう。

金岡 ジャーナリズムと言っても、結局、面白い漫画が載っているかどうかが、新聞の価値というわけだ。

楽天 新聞記者は、プライドが高いが儲けは低い。漫画記者はプライドは低いが、上げる利益は高い。

桜 ちょうどそれで釣り合っているというわけよ。さあ、愚痴はこのくらいにして、気持ちよく呑みましょうよ。仕事のことは、さあっと忘れて、呑んで楽しくなりましょう。さあ、桔梗、菖蒲、紅葉、椿。注いで、注いで。たくさん呑んでもらって、たくさん払っていただきましょう。

   芸者たちは、客にお酌して回る。

   そこに、佐野涼子と大隈重信が入ってくる。

涼子 先生、こちらです。ここに北沢楽天先生がいらっしゃると聞いて参りました。

凹天 北沢楽天先生は、こちらだ。

島田 約束もなしに、宴席に乗り込んでくるとは――。

麻生 失敬じゃないか。

涼子 失礼を承知で参りました。楽天先生にお願いがございます。こちらは大隈重信総理でいらっしゃいます。

   大隈はいきなり、楽天に土下座をする。

楽天 総理。頭を上げてください。

大隈 私は北沢楽天君が首を縦に振るまで、この姿勢は崩さん。

楽天 私は何をすれば――。

大隈 山本権兵衛率いる、立憲政友会の横暴を、ことごとく漫画にして、国民に知らしめてほしいのです。

楽天 その事実を報じるために、金岡、原口、野口などの新聞記者がいます。

大隈 いくら記事にしても、読者は字を読まん。

涼子 面白い漫画が最も一般人に訴えるのです。

大隈 大隈には、いや日本の将来には、先生の力が必要なのです。

涼子 先生のお力が、大隈総理には是非必要なのです。伏して、伏してお願い申し上げます。楽天先生、軍部の腐敗は先生もご存じの通りです。昨年起きました、ドイツ企業・シーメンスによる海軍高官への贈賄事件、覚えていらっしゃるでしょう。あの事件の責任を取る形で、立憲政友会の山本権兵衛内閣が退陣し大隈内閣ができました。しかし、それまでは、山本率いる海軍閥のやりたい放題だったのです。

大隈 だが、私の率いる与党・立憲同志会は、弱小政党。とても長期政権を維持できる力はありません。今回の欧州での戦争、フランス・イギリスを相手にドイツが戦っている構図だが、欧州全体に戦火が広がる可能性大だ。

涼子 世界大戦になるという学者もいます。

大隈 政友会・山本権兵衛は、この西洋の大惨事に乗じて、日本は漁夫の利を得ようと考えている。

涼子 自分は戦いに参加せずに、物資を売り込んで利益を得ようと考えています。

大隈 この大隈、人の命が失われ、それに乗じて金儲けを企む輩が許せません。何とか、戦争への加担を減らしたいのだ。

楽天 わかります。

大隈 もし、これで日本が戦勝国にでもなれば、さらに戦火は拡大する。西洋のみならず、世界中を巻き込む戦になる。そうなれば、日本がアメリカと戦うこともあるだろう。

涼子 大変な犠牲が日本を襲います。

大隈 そういう事態は何としても阻止しなくてはならん。頼む。

   大隈と涼子は、床に額をこすりつける。

楽天 時の総理に、そこまでされては、楽天返って居心地が悪い。頭を上げてください。総理のお気持ち、楽天、しかと受け止めました。必ず、ご期待に沿う働きをいたしますぞ。

大隈 かたじけない。楽天君。

涼子 ありがとうございます。感謝の言葉もございません。(大隈に)先生、お時間でございます。

大隈 楽天君、本当は一献交わしたいのだが、弱小政党の弱みで、あちらこちらに頭を下げて回らなくてはならんのだ。これで失礼する。

  大隈と涼子は去る。

楽天 さあ、我らは盛り上がろう。総理直々に、時事新報のお褒めを頂戴したのだ。日本の将来は、我らにかかっているといっても過言ではない。さあ、呑もう。さあ、歌おう。狂え。一夜の夢のように――。乾杯。

   三味線の音が入り、芸者たちは舞い、男たちは酒を酌み交わす。

   暗転

   楽天、凹天、島田、麻生が路上で、酩酊している。

楽天 見たか、諸君。時の総理が、大隈重信総理が、一漫画家である北沢楽天に土下座だぞ。

凹天 私も総理がいきなり、土下座をされたときにはびっくりして、息が止まるほどでした。

島田 総理大臣、追い詰められているんですねえ。

麻生 全然、偉い人に見えなかったもん。

楽天 福沢諭吉は『学問のすすめ』で「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」と書いた。なぜ、この世には、人の上下があるのか――。

凹天 勉強する人と、勉強しない人がいるからでしょう?

楽天 違う。人に差がつくのは、漫画を勉強する人と、そうでない人がいるからだ。(高笑い)

凹天 文章いくら勉強して、記事をいくら書いても、新聞の売り上げにはつながりませんからねえ。

島田 プライドは新聞屋に任せて――。

麻生 我らは、経済という、売り上げ部数という、実を取りましょう。

楽天 そうだ、その意気だ。我らは、一流大学を出た新聞記者には見下されているが、心は錦だ。漫画万歳だ。(三人に)君たち。私は野暮用がある。先に帰ってくれ。

凹天 わかりました。

島田 楽天先生。お盛んですね。

麻生 なにごともほどほどが大切ですよ。

楽天 わかった。わかった。みなまでいうな。

凹天ら三人 では、お先に失礼します。

   凹天らは、先に歩いていく。

   楽天は、ゆっくり後を追う。楽天には、後ろから、桔梗、菖蒲、紅葉、椿が寄り添って歩いていく。

   舞台反対側から、金岡、原口、野口が出てくる。

金岡 楽天のやつ、どういう態度なんだ。

原口 時の総理を土下座させたばかりか、酩酊しては遊び放題。

明美 あの様子じゃ、店ごと買いあげていますよね。

金岡 どぶに捨てるほどの金があるのだから、我が世の春を謳歌しているはずだ。

原口 楽天が創刊した雑誌・「東京パック」も、バカ売れしているんですよね。

明美 十万部だそうです。

金岡 お金が先を争って、楽天の財布に潜り込もうとしている。

原口 思いあがりも甚だしい。

明美 たかが、漫画家ですよ。政治、経済を勉強し、国際情勢に目配りをし、記事を書き、新聞社の主張である論説を書いているのは我々新聞記者だ。我らは、亡くなられたとは言うものの、創業者である福沢諭吉翁の薫陶を受けている。

金岡 その我々が、六ページのうちの、わずか一コマの漫画に、蹂躙されている。我らが時間通りに記事を書いても、楽天の漫画ができなければ、出荷を遅らせなくてはなからない。

原口 読者は、我らの記事ではなく楽天の漫画を待っているという塩梅だ。

明美 おごれるもの久からずです。

原口 そうはいっても、明治維新以降、薩摩閥と長州閥の横暴は、四十五年も続いているんですからね。おごれるものは、かなり久しいですよ。

金岡 我慢だ。我らは、我慢して、今は忍耐力を鍛えるときと定めよう。

原口 わかりました。

明美 堪忍袋の緒が切れたらどうするんですか?

金岡 そのときは、そのときだ――。

   三人は去る。

   暗転

   楽天の家――。

   妻の「いの」と女中の粕谷玉が、洗濯物を畳んでいる。

玉 先生、遅いですね。

いの そうね。

   舞台奥から楽天の「ただいま」という声がする。

   いのと玉は、玄関口へ。

   楽天を抱きかかえるようにして、二人は居間に連れてくる。

楽天 いやあ、酔った。酔った。これ以上は呑めない。歩けない。動けない。腰も動かない。

玉 腰って、どういうことですか?

   いのは、楽天に浴衣を着せようとしている。

楽天 据え膳食わぬは、男の恥というだろう。

玉 据え膳と言っても、私にはかわいい妻がいる、今日のところは失敬するよ、と帰ってくればそれですむんじゃございません?

楽天 据え膳と言っても、尋常ではない据え膳もあるからな。

いの どういう具合に、尋常ではないのです?

楽天 据え膳が、びっしりと敷き詰めてあると思いなさい。前に行くにも、足の踏み場もない。どれかの据え膳に足がかかってしまうという、そういう寸法だ。

玉 私には、ただのだらしない女好きにしか見えませんけどね。

いの それで、今夜は何人のご婦人を相手になさったのですか?

楽天 四人――。くたくただ。寝る――。

玉 楽天先生、奥様に一言だけでも謝ったらいかがです? こういうことをお許しにならない奥様もたくさんいらっしゃるのに、いの様は、寛大に受け止めてくださって。

楽天 (酔いながら)いや、すまん、いの。浮世の義理でな、仕方がなかったのだよ。お前が私の好きな漫画を描かせてくれ、全財産を失うかという、のるかそるかの大勝負に出た、『東京パック』の創刊にも賛成してくれた。君のようにできた奥さんには、感謝しきりだ。では、私は寝る。ばたん、きゅーだ。

いの おやすみなさいませ。

玉 先生、今日の新聞、ここに置いておきますよ。

楽天 (何となく新聞をめくり)なんだこれは。時事新報じゃなくて、朝日新聞じゃないか。玉さん、間違えたな。(読み始める)何――? これは……。(絶句する)俺は好景気に浮かれていた。すっかり、漫画家としての研鑽を忘れていた。俺は、俺は、なんて無様なんだ……。

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