ワンポイント・リリーフ ――永射保の死を悼む

2017年6月24日、永射保が死んだ。日本プロ野球界に「ワンポイント・リリーフ」という言葉を定着させた男である。

永射には「左殺し」というニックネームもある。永射は左のサイドスロー投手である。ストレートが浮き上がってくることもあり、アンダースローともいえる。自軍がリードしている試合の7回8回という終盤に、敵のホームランバッター一人を封じれば、試合はほぼ手中に収まるという局面がある。永射は、「ワンポイント」で左打ちの強打者を打ち取ってしまう。続く打者ではホームランの可能性が減ってしまい敵は反撃の気力を失ってしまう。
現役生活19年の中で、永射がもっとも活躍したのは、1079年から84年までの6年間である。当時、永射は西武ライオンズの選手だった。
ちょうど同じころ、81年から83年までの4年間、日本ハムファイターズにトニー・ソレイタという左打ちの主砲がいた。4年間で155本の本塁打を打ち、“サモアの怪人”というニック・ネームがあった。彼はクローズド・スタンスでバッター・ボックスに入る。
ここで、永射の投球フォームに触れておかなくてはならない。永射は、サイドスローだから一塁側に身体を傾けて投げる。また、左足をホーム方向ではなく、一塁寄りに踏み込む(インステップ)。ボールが放たれる手は、ピッチャーズ・プレートの端から1メートルぐらいライト寄りになる。加えて、ボールを投球ぎりぎりまで長く持つから、打者から見ると球の「出どこ」が見えにくい。
クローズド・スタンスの打者からみると。「背中の後ろから球が飛んでくる」感じになる。永射の球種は、ストレートとカーブの二つだけ。ストレートは135キロ前後のスピードしかない。まっすぐだけなら“並以下”の投手でしかない。眼のよい打者なら、左打者でも対応はできる。だが、永射のカーブはスライダーのように横に滑る。左打者が背中の後ろから飛んでくる球に眼を合わせようとすると、意識はライト方向に向く。そこにカーブが、外角に横滑りすると、眼が追い付かない。ボールが一瞬消えてしまうという。
左打者が外角にくるカーブを狙おうとすると、ベースに近寄って立つほかない。永射は、内角に投げる。背中の後ろから飛んでくるボールが、内角に際どくくれば、どんな打者でも怖いはずだ。だから、左打者はベースに近寄って立てない。
左打ちの強打者がボールにかすりもしない。永射は、試合終盤の勝負所で、最強の打者一人だけを打ち取って、ダッグアウトに帰ってくる。「左打者」を一人だけ殺すのが仕事なのである。
同じ時期、ロッテ・オリオンズの主砲はレオン・リーだった。レオン・リーがロッテ・オリオンズで活躍したのは、1978年から82年である。永射の全盛期とほぼ重なる。打率率三割を常にキープし、80年には本塁打40本を打った強打者である。レオン・リーもソレイタ同様に左打ちのクローズド・スタンスだった。レオンにも球の「出どこ」もみえない。レオンは永射に打ち取られた後、「あんな奴は嫌いだ」というジェスチャーをしながら、ダッグ・アウトにも戻ってきたものだ。レオン・リーは、永射の投球に一度だけ自棄を起こして、右のバッター・ボックスに立って対戦したことがある。三振覚悟だったろう。しかし、右打席に立てば、ボールはよく見える。強打者だけにボールに当てる技術は超一流で、インコースの球をドン詰まりにして、レフト前にヒットを打ったことがある。とはいっても、そんな無謀なことも一度きりである。

永射が好き

私が永射保を記録に留めておきたいと思う理由は、「ワンポイント・リリーフ」という“職域”を切り開いたからだけではない。もちろん、それは偉業である。永射以降、何人もの投手が、彼の真似をしようとした。また、監督やピッチング・コーチにしてみれば、そういう投手は喉から手が出るほど欲しい。実際にそんな使われ方をした投手もいた。だが、永射以降に、そんなタイプの名投手は一人も出ていない。ストレートが135キロしか出ない投手の真似が誰にもできないのである。
だから、それだけでも記録に留める理由はある。私には永射保は偉人に見えるが、おそらくプロ野球史の中では、大きくは取り上げられることのない人物だろう。彼を記録で記すと大要こうなる。1972年「広島カープ」に入団、二年後「太平洋クラブライオンズ」にトレードされる。同チームは売却され「クラウンライターライオンズ」「西武ライオンズ」と名前を変える。永射は1986年まで「ライオンズ」の選手を続ける。87、88年は「大洋ホエールズ」、89、90年は「ダイエーホークス」で投げて、引退。選手生活は19年。通算44勝37敗21セーブ。生涯防御率は4.11。プロ野球史で記録と呼べるほどの数字はない。
強いて記録を挙げれば、566試合のリリーフ登板で、これは歴代3位。年間リーグ最多登板を4回記録している。もちろん、この二つだけでも偉業だがプロ野球史で抜きんでた選手ということにはならないだろう。永射は、エースであったことも抑えの切り札であったこともない。
私が永射のことを記したいのは、詰まるところ彼が好きだから、という理由だけである。

永射最大の一日

永射の投手としての、最大の偉業は1982年6月23日の阪急ブレーブスとの試合である。当時のパ・リーグは「前・後期制」で、この試合に勝てば西武ライオンズは前期優勝のマジックが点灯するという局面だった。マジック点灯というより、前期の優勝を決める試合だったといってもよい。
永射はほとんど中継ぎ投手だった。前年の81年からは、ワンポイント・リリーフという使われ方もしていた。
だが、その試合は先発投手だった――。
その日、西武ライオンズの先発は、右のサイドスロー高橋直樹がローテーション的に順当だった。永射の先発を知っていたのは、広岡達朗監督、八木沢荘六投手コーチ、大石友好捕手、それに本人の4人だったという。誰もが驚いた奇襲戦法だった。
マジック点灯というより、西武の前期優勝が懸かった試合だった。当時、私は西武ライオンズのファンだった。私の出身は福岡県で、自然に地元「西鉄ライオンズ」のファンになっていた。
博多から所沢に本拠地が移り「西武ライオンズ」になってからも、しばらくは「ライオンズ」のファンだった。西武ライオンズの試合は、テレビ放送があまりなかったはずだが、その日は何故かテレビが中継した。私もそれほど野球をテレビ観戦する方ではないが、ライオンズ・ファンの血が騒いで中継を見ていた。
アナウンサー、解説者ともには永射の起用に戸惑っていたように記憶する。
ただ、阪急ブレーブスの福本豊(1番)、加藤秀司(3番)、ウェイン・ケージ(5番)という左打者をどう抑えるかが投手起用のポイントでもあったので、左投手の起用は理に適っているといえなくもない。しかし、普段は一試合に付き打者一人としか対戦していない投手を、ここ一番という大勝負にいきなり先発起用するのは、危険すぎる。投手起用としては大博打である。
もちろん、先発・永射を決めたのは広岡である。この投手起用に私は「変だな」と感じた。永射の先発が奇策であり奇襲であることは、40代以上の野球ファンは少なからず記憶にあるはずだ。だが「変だな」と違和感を表明した記事や文章を見た記憶がない。
私が「変だな」と感じた理由には、少し紙幅を要する。
広岡は指揮官として博打を打つタイプではない。理論派として知られ「管理野球」という言葉を広めた人物である。基本に忠実なプレーを好み、自分が立てた作戦を実現してくれそうな、“兵隊”を使いたがる。個性的で一匹狼のような選手は使いたがらない。まず、大事な試合の先発投手で“博打”をするのが、変なのである。
また、銀縁の眼鏡が似合う知的な顔立ちで、性格も「冷たい」と言われていた。少なくとも陽性ではない。
その年は西武の監督就任一年目だった。いわば外様である。ヘッド・コーチに子飼いの森祇晶を連れてきた。自分の考える管理野球を実現するため、自分だけでは選手を抑え込めないかもしれないから、ツー・トップで抑え込もうという算段である。そういう考え方をする人だから、暖かさが感じられない。また、森はV9時代の読売ジャイアンツの正捕手である。V9の頭脳というニック・ネームがあり、広岡同様、理論家である。広岡が西武の監督を解任された後、監督に就き、西武の黄金時代を築いたことは誰もが知る通りである。森も「管理野球」を好む。性格はやはり明るいとはいえない。率直に言えば、暗い。
一方、永射は“ヤジ将軍”で、ベンチでは誰よりも声が大きい。明るい性格で、味方のヒットやファインプレーが出ると、スタンドの応援団よろしく音頭を取り、ベンチを盛り上げる。私が知る限り日本プロ野球史上最も熱血なムード・メーカーである。
西武ライオンズのベンチで広岡と森が並んでいると、そこだけ暗い。同じベンチの反対側に、永射を中心とする明るく、賑やかな一群がある。
この光景も、変と言えば変だが、ダグ・アウトは横に長いので、それほど違和感はない。広岡も、永射たちの“大騒ぎ”を悪いことだとは思っていないので、注意をすることもなかったろう。
広岡と永射は、一見「水と油」の関係である。仲が良かったという話は聞かない。つるんで呑みにいく関係でもなかった。
ここ一番の試合に先発経験のない永射を先発させるということは、よほどの信頼があるからである。単純な“博打”ではない。なぜ、広岡はそこまで永射を信頼したのか――。

永射は西武ライオンズの救世主

私は二つの理由があると考える。
同82年5月、ペナントレースが始まってしばらくの頃である。エース・東尾修は1塁ベース・カバーに遅れ、送球を取り損なった。怠慢プレーである。これを理由に広岡は東尾をローテーションから外した。故障もしていないエースをローテーションから外すなど前代未聞のことである。
広岡が東尾をローテーションから外したのは、粛清であり、見せしめだった。
その前年まで、西武の監督は根本睦夫だった。根本は放任主義で、選手はのびのびとプレーしていた。彼は細かい作戦的な指示は出さない。もちろんチームは弱い。怠慢プレーはあって当たり前のチームだった。
そういうチームの意識改革をしようと、広岡は腹心の森までヘッド・コーチに据えて、選手を従わせようとしたのである。
だが、西鉄ライオンズの頃から続く“豪快野球”の気風は変わらない。というより、当時の西武はチームプレーができない集団だった。
少し説明を加えると、クラウンライターが西武に身売りしたとき(本拠地が博多から所沢に移った)、西武は「ライオンズらしい選手」を何人も放出した。阪神に、真弓明信(後にセ・リーグの首位打者)、若菜嘉晴(正捕手)、竹之内雅史(阪神の代打の切り札となる)。大洋に基満男(正二塁手)。
ライオンズ生え抜きのスター的選手は、エースの東尾修と大田卓司(主にDH)の二人といってもよい。これ以上西鉄ライオンズカラーは薄まったら、旧ライオンズ・ファンは離れてしまう。東尾と太田がいるお陰で、西鉄ライオンズ・ファンがかろうじて見限らないという残し方だった。
新生・西武ライオンズの目玉は阪神タイガースから引っ張ってきた主砲、田淵幸一である。田淵は毎年、王貞治とホームラン王を争っていた強打者である。ただ、田淵もピークは過ぎており、本来のポジション・捕手をやってもスローイングがままならない。結果的に、ファーストに起用されることも多い。選手としての華はあり、スター性はあったが、西武に移ってきてからは、打率、本塁打ともに、“並”の記録しか残していない。田淵以外にも、ロッテから野村克也、山崎裕之という名選手を連れてきたが、峠を越えた感は否めない。
そういう寄せ集のチームだから、そもそもチームプレーはできない。細かいことをいって、伸びやかさを奪えば、かえって逆効果である。
もちろん、管理野球は似合わない。広岡は、キャンプ中から猛練習を課す上に、晩飯のビールを禁止したり、玄米食にしたり、と選手から恨まれることをたくさんやってきた。
広岡への反発は強かったはずだ。東尾は向こうっ気の強い人だから、広岡とはそりが合わない。そこに持ってきて、故障もしていないのに、ローテーションから外されたのである。
ローテーション外しの、直接の理由は、一塁ベース・カバーの遅れである。だが、東尾は、それまでも大事な局面で甘い球を投げて、試合を壊すことがあった。勝負所でポーンとホームランを打たれて「いかれました」と悪びれずにベンチに帰ってくる東尾が広岡にはカチンときていたようだ。
東尾は投球術も優れているし、コントロールもよい。現役通算の成績は、251勝247敗23セーブ。パ・リーグというより日本を代表する名投手である。ストレートは140キロ出ないが、スライダーとシュートの切れがよい。また、コーナーワークで勝負する投手である。また、頭のよい人だった。心理戦の達人である。オールスター戦で王貞治を三振に打ち取ったことがある。王の読みの裏をかいた。王が「東尾って、あんなに上手かったっけ?」といっているほどである。
東尾は、広岡と出会うまで、23勝を挙げた年が二度もあるのに、通算では負け星の方が多い投手だった。どんなに弱小球団の投手でも、20勝以上を二度もやった投手は、普通は勝ち星が先行する。広岡から見れば、集中力を欠く瞬間があるのである。そこで崩れて、勝てる試合を落としてしまう。東尾にしてみれば、ずっとそれが“当たり前”の状態だった。広岡から見れば、それを「当たり前」にしてはいけない。本来、世界の王が、「上手い」という投球術を持っている投手なのである。エースなのだから、勝つべき試合は、きちんと勝たなくてはならない。やえることをやらないのだから、広岡は強硬に粛清の対象にした。それが、エースのローテーション外しである。
広岡は、東尾のプライドをへし折るために、わざとやったのである。俺のいうことを聞かなければ、みんなこうなるぞ、と。
選手たちは、ほとんど反広岡で固まっていった。選手たちもプレーをしないわけにはいかないが、指揮官の“恐怖政治”に気持ちが付いて行かない。
指揮官に対する怒りで選手が結束し、まれに強いチームができることもある。しかし、その強さは、二年も三年も続くものではない。いずれは破たんする。破たんするのを待つという、身の処し方もある。多くの選手はその方法をとった。
一人だけ、そうしなかった者がいる。永射保である。
永射は広岡に詰め寄った。「なんで東尾さんば使わんとですか」。私もその現場を見たわけではないが、スポーツ新聞にはそう書いてあった。鹿児島出身の永射なら、意を決して監督に談判するとき、九州弁を使いそうである。永射はその時27歳だった。前年までの勝ち星は、プロ通算10年で26勝。中継ぎ投手なので、実績としては“並”といってよい。
一方、広岡は西武の監督になる前、ヤクルトスワローズの監督を4年やり、優勝経験もある。
永射にしてみれば、喧嘩を売れる相手ではない。というより、選手が監督に、選手起用について文句を付けたら、チームは成り立たない。絶対にやってはならないことを永射はやったのである。それも、自分の身の程をわきまえずに。
広岡、東尾ともに折れる人間ではない。誰かが何とかしなくてはならない。でも、誰も何もできない。
こういう時、永射は、“捨て身”になれる男なのである。本来、選手は監新聞記者にさえ、首脳部批判をやってはならない。それが記事になれば、干される運命にある。永射は、“独裁者”広岡に直接詰め寄ったのである。それがスポーツ新聞の記事になったのだから、記者のいる場所でやったはずである。監督や首脳陣が試合前の会議をする作戦室を出たあたりではないかと思われる。
永射の問いに対する広岡の答えはこうだった。「わざと負ける投手を使うわけにはいなかい」。広岡の言うことにも一理ある。永射はひるまなかった。「わざと負ける投手の、おるわけなかでしょうが」。
その後のやりとりは、スポーツ新聞には書かれていなかった。だから詳しい経緯はわからないが、その後、永射は干されなかった。そして、東尾はローテーションに復帰した。
ということは――。私の推測の域を出ないが、永射は「東尾さん、おいの顔ば立てて、監督に頭ば、さげてくれんですか」といったのではないか。
広岡も東尾も自分から詫びを入れるタイプには見えない。だが、どちらかが折れなければ、収拾はつかない。だが、広岡が詫びを入れる理由はない。永射は、東尾に頭を下げるように頼んだはずである。そして、少なくとも東尾は「もうポカはやりません」ぐらいは広岡にいったはずである。そうでないと、広岡が東尾を使うとは思えない。
その流れ以外では、収まるはずのない局面である。
そして、弱小球団だった西武ライオンズは、そこから快進撃を続け、前期優勝が狙えるところまできた。
マジックが点灯するというより、これに勝てば前期優勝というカギになる阪急ブレーブスとの一戦の、先発投手が永射保だったのである。
私は、広岡達郎に、ジンと胸が熱くなった。広岡は、トータルで見れば、暗い。冷たい。確かにそうだ。
しかし、この局面だけは熱い。永射に「任せた。頼むぞ」と先発に送り出したのである。永射も意気に感じる。恐らく、先発前夜は興奮でろくに寝られなかったのではなかろうか。だが、永射はワンポイント・リリーフのときに打者と対戦する気迫で、一人ずつと勝負していった。永射の疲れは、いかばかりだろうか。精神力の固まりのようにマウンドに立っていた。一球入魂というが、まさにそんな投球だった。
結果は、阪急の先発・山沖之彦が早々と打ち込まれ、永射は6回まで失点1と好投して(7回に3失点をして降板)、試合は西11対4で西武の勝ちとなった。
西武はここ一番の大勝負に勝ち、前期優勝を決めた。後期は、パ・リーグの三位に終わったが、プレー・オフで後期優勝の日本ハムを倒し、“ライオンズ”は19年振りにリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズも4勝2敗で中日ドラゴンズを倒し、24年ぶりの日本一となった。
翌年の83年は、2位の阪急に17ゲーム差をつけての独走で優勝。日本シリーズも、巨人を相手に4勝3敗で勝ち、2年連則で日本一となる。
永射は、西武の救世主だった――。少なくとも、私にはそう映っている。

東尾修の人生も変えた

広岡は、監督4年目の85年にフロントと対立して、西武を追われる。
西武ライオンズは、広岡監督が指揮を執った4年のうち3回優勝している。広岡の次に監督になったのが森祇晶。森は86年から94年まで9年間指揮を執り、8回も西武をリーグ優勝に導いている。西武は“常勝球団”となる。
常勝・西武ライオンズができた理由は、いくつもある。スカウト陣を強化し、優れた新人を多数獲得した。チーム内の競争も激しくなり、隙のないチームができた。もちろん、それら全てを、フロントが潤沢に金を使ったことが支えている。常勝・西武の功労者は、監督にも選手にも多数いる。
だが、私には永射を上回る功労者はいないと思われる。永射が広岡に詰め寄らなかったら、その後の西武のすべてが違ったように思えるのである。
たとえば、東尾修――。広岡が西武監督になるまで、ライオンズの選手として13年間に挙げた成績は159勝181敗。すでに記した通り、負け星の方が上回っている。
東尾の選手生活は20年なので、“広岡以降”は7年間になる。その間の成績は、92勝66敗である。勝ち星が大きく上回っている。ポカが少なくなったということである。試合中の集中力が途切れなくなった。
東尾の生涯成績は、251勝247敗23セーブ。4つだが、勝ち星が負け星を上回っている。東尾の広岡嫌いは、夙に知られているが、広岡と出会っていなければ、恐らく勝ち星の方が多くなることはなかったはずである。
広岡との確執以降の東尾は、マウンドの立った時の気持ちが違ったはずである。
エースである自分の投球を、ローテーションから外した広岡がベンチから見ている。一球ポカをやって、それをスタンドに運ばれてしまえば、広岡に「打たれるべくして打たれたな」と嫌味を言われることがわかっている。東尾は、はらわたが煮えくり返る相手に、文句を言わせる隙を作りたくなかった。結果的に、ポカができなくなり、負けが減った――。

永射は、広岡が指揮を執った85年までは“戦力”だったが、86年は不調。87年には大洋ホエールズに移り、89年にはダイエーホークスへ。そして90年に選手を引退。86年以降の5年は、目だった働きはなかった。もちろん、87年には39試合、88年には27試合、89年には39登板しているから(90年は8試合)、中継ぎとしては十分に働いている。とはいえ、弱小球団で優勝に絡んでいない試合の中継ぎはぱっとしないものだ。やはり、全盛期は79年から86年までの6年間といってよいだろう。

私の心に引っかかった永射

私は、永射には取材する機会が自然に訪れるだろうと思っていた。というのも、しばしば、郷里の福岡・久留米に帰るからだ。永射は、現役引退後、西鉄電車の「小郡」駅前で「サウスポー」というスナックをやっていた。久留米から小郡までは、西鉄電車で15分程度の距離である。私の永射好きは友人にも有名で、機会はやがて訪れ、私は小郡に行くだろうと考えていた。
永射が広岡に詰め寄った後の経緯を知りたかった。私の推測だけでは、収まっていないと思われる。色んなキー・パーソンがいたはずである。
もう一つ、私に引っかかっていることがあった。「変だな」と心に残り、忘れられない雑誌記事があった。
1974年か75年のシーズン・オフの時期である。ライオンズのオーナー会社は、太平洋クラブだった。
その記事が載っていたのは、少年サンデーか少年マガジンか、どちらだったかもはっきりしない。そのどちらかだったろう。両誌とも最後のページは目次である。その手前の見開きに、雑報を何十か載せていた。内容は芸能やスポーツ、その他の社会ネタである。どれも高々20行程度の記事である。“埋め草”という感じの記事が並んでいるページといってよい。
その一つに永射保の記事があった。来年は、オーバースロー、スリークォーター、サイドスローの三か所から投げるべく準備をしている、というのである。上、斜め、横と三か所から飛んでくる球に打者は幻惑されるはずだ、と。
まず、ライオンズのニュースが記事になることが変である。ライオンズは、1969年に「黒い霧事件」と呼ばれる八百長疑惑でイメージが悪かった。
加えて、永射は76年に3勝するまで、勝ち星がない投手である。広島カープで二年間投げて、箸にも棒にもかからなかったから、太平洋クラブライオンズに放出されたのである。
なんの実績もない無名投手である永射が投球フォームの改造を準備していることに、ニュース・バリューはない。スポーツ紙でもページを割くほどではないニュースを、わざわざ少年誌が載せるのは変だ。雑報にしても、である。
少年誌の編集者に、永射の知人がいたのではなか、としか思えない。それも、永射に相当肩入れしている人がいたに違いない。永射は、「肩入れされる」あるいは「惚れられる」人間なのではないか――。うがった見方をすれば、少年が好きになる要素を永射が持っていると思っている編集者がいたのかもしれない、と。
私が、永射に興味を持った最初は、この少年誌の雑報である。それで私は翌年、テレビ中継のある時は永射の投球を意識して見た。だが、永射は三種類の投球フォームを見せたことはなかった。その年は既に、引退するまで続けるサイドスローになっていた。

少年漫画の主人公のような永射

今、一般の人が永射のことを詳しく知ろうとすれば、Webで二つの記事に出会える。一つは、2017年1月31日の「サンケイスポーツ」。「ダンカンが訪ねる 昭和の侍 永射保さん」というインタビュー記事。野球狂の芸人・ダンカンが昭和に活躍した“侍”をインタビューする連載企画である。何十人かをインタビューして、永射は最終回の登場だった。もう一つは、2017年7月5日、『スポルティーバ』Web版、谷上史朗氏の追悼文である。谷上氏は、永射に何度か取材を重ねているようで、数度のインタビューをQ&A形式に再構成してある。
もちろん、永射が死んだ翌日には、17年6月25日には「日刊スポーツ」が追悼文を載せ、同日の「スポーツ報知」は福本豊の追悼文を載せている。しかし、永射ファンの私から見ると、たっぷりとページを割いたとはいえない。
永射が死んだのは、久留米市内の病院とある。恐らく、私も良く知っている聖マリアンナ病院か久留米医大病院だろう。死因は肝臓がん。スナック経営者だったのだから、職業病みたいなものだろう。

私が永射を好きになったのは、恐らく彼が少年漫画の主人公のように見えたからである。永射は背が低い。公称は172センチメートルだが、ダンカンのインタビュー記事によると、169センチである。事実は後者ではないかと思う。そして、根っから明るい。小さくて、明るい――。これは少年漫画で、ファンに愛される二大要素である。
さらに、天分に恵まれていない。ストレートの球速は135キロしかでない。プロで通用する才能ではない。絶望的といってもよい。
しかし、ワン・ポイント・リリーフという職域を開拓した。勝負どころで、左の強打者を一人仕留めて、クローザーに引き継ぐ。
たった一人の打者と対するために、毎試合肩を作らなくてはならない。効率が悪いことこの上ない。だが、永射はそれをやった。
さらに、試合の勝負どころに出て行って、敵の主砲に物怖じすることなく、堂々と投げている。打者は巨漢。対する永射は小兵。少年漫画の構図そのものである。さらに、永射はマウンドで青ざめた顔を見せたことがない。強心臓なのである。これは、まさに天分だ。それも少年漫画の主人公のようだ。そうして、パ・リーグを代表する強打者(左)が、「顔を見るのも嫌」という投手になったのである。
ユー・チューブで確認してみればわかるが、永射のフォームは、身体に相当負担をかけるものである。普通の投手は、(左投手だったら)右足を、できるだけホームベースに近づけて踏み込む。打者に近いところから投げた方がよいから、当然そうなる。
ところが永射は、一塁ベース寄り(インステップ)に右足を踏み出す。他の投手と違って永射は球を早く見せるのが目的ではない。より一塁寄りから投げて、左打者の背中からボールが飛んでくるように見せるのが目的である。また、ボールをできるだけ長く持って、投げる瞬間を打者から見えにくくする。
そんな投げ方をしたら、腰への負担が大きく、普通は投手生命を縮めてしまう。危険な投げ方だと思われる。天分の備わっていない選手が生き残るために、危険な賭けをしてしたように見える。
永射の特徴を挙げる――。小さい。明るい。絶望的な天分。危険な賭け。ここ一番の強心臓。
私は少年漫画の主人公を好きになるように、永射に魅せられていった。
そして、身の程をわきまえぬ広岡監督への直談判。大勝負での奇襲戦法で、監督の期待に応える熱投――。
私以外にも、永射保の隠れファンは多数いると思われる。

少年漫画のような“気付き”

永射の絶望までの経緯を記す。彼は鹿児島県指宿市出身である。指宿市立指宿商業のエースとして活躍する。夏の甲子園予選では、準々決勝で敗退する。だから、甲子園のスターにはなれていない。だが、二回戦でノーヒット・ノーランを記録する。これがスカウトの目に留まり、ドラフト3位で広島カープに入団する。だが、当時広島のエースだった、外木場義郎の球速・球威を見て、レベルの違いを見せつけられる。ここに永射の最初の絶望がある。
その頃、ヤクルトスワローズで安田猛という、球の遅い投手が活躍していた。一時期はエース・松岡弘にそん色のない働きをしていた。140キロ近くは投げていたと思う。だが、エース松岡弘ほどの球速はなかったので、「球が遅い投手」に見られていた。頭脳的な投球とコーナーワークが持ち味で、永射は、安田をお手本にしてみようと思い立つ。少年漫画でいうなら、スランプに苦しむ主人公が「これだ!」という瞬間にも思える。
安田は、サイドハンド気味に投げる投手だった。横から球が来るため、当時日本一の左打者・王貞治が苦手としていた。
その頃のセ・リーグの球団は、どこも王対策は悩みの種だった。
広島の別当薫監督、長谷川良平コーチと相談し、永射は安田をヒントにサイドスローの練習を始める。だが、広島在籍中の二年間で勝ち星はなし。二年目に二度先発をするが、その年の防御率も5・29。結果を残せずに、1974年から太平洋クラブライオンズの選手になる。
74年の登板機会は14回。防御率は8・18。75年は登板機会さえない。投手不足のライオンズでさえ、利用価値のない投手だった。自由契約になってもおかしくないプロ生活(5年間)である。
ライオンズに移籍したばかりの頃、理髪店で阪急の山田久志(阪急ブレーブス)の投球をテレビで見る。山田は、右のアンダースローである。左足をインステップに踏み込むので、右打者は打ちにくい。
永射は、またしても「これだ!」と思う。これを左にすればよい、と。だが「完成させるのに4年かかった」という。
山田は、振りかぶりから“サブマリン”である。だから、アンダースローである。永射のモーションはサイドスローに近い。だが、左手の腕の振りは山田そっくりである。だから、アンダースロー投手のように、球が浮き上がってくる。
山田の投球を支えているのは下半身の強さである(最大の長所は投球術という“頭”だが)。腰から下がどっしりとしている。その下半身がなければ、プロ野球で20年も投げて、284勝もすることはできない。
永射も下半身には自信があった。ダンカンにこういっている。「1日30キロ。球場入りしてからも20キロは走ったわ、1年で休みは誕生日と台風の2日ぐらいか」。
引退して何年も経っているから、少しは誇張があると思う。福岡にいて、台風が1年に1日しかこないということはない。

強心臓になりたい

永射が本格的に活躍するのは、77年ライオンズがクラウンライターに買収されて1年目の年である。この頃のライオンズは、投げられる投手は、先発・中継ぎ・抑え・敗戦処理と、なんでも使われた。永射は、199イニングに投げて9勝10敗6セーブ。防御率は3・33。一流投手の仲間にはいってきた。
「左のサイドスロー・永射」というイメージを野球ファンに植え付けた年である。「4年かかった」の4年目である。
そして、77年の酷使がたたり、78年は登板機会14と使い物にならなかった。成績は0勝3敗1セーブである。
78年のオフに、ライオンズは西武に買収され、本拠地を埼玉・所沢に移す。79年から81年までのライオンズは、生え抜きを放出した寄せ集めの混成弱小球団である。監督は、クラウンライター以来の根本睦夫。根本は大ざっぱな野球しかやらない。西鉄以来の「豪快野球の伝統」ともいえるが、放任野球といった方が正確だ。
永射は、この3年間、目覚ましい働きをしている。79年の登板数が63。80年が56。81年が61。ほとんど半分の試合に中継ぎとして投げている。弱小球団の中継ぎだから、敗戦処理も多数あったはずだ。
79年は打者448人、80年は打者520人に対したが、81年は354人と減っている。登板機会が減っていないのに、対戦した打者が激減したのだから、この年が「ワンポイントリリーフ・永射」の萌芽といえる。
とはいえ、弱小球団の中継ぎでは、スター選手とはいえない。
そして、81年から広岡達郎が西武の指揮を執る。先述の通り、パ・リーグの弱小球団がいきなり優勝、日本シリーズも制する。
この81年、永射の登板機会は42、対戦した打者は184名と激減する。ワンポイントでの登板が増えたのである。トニー・ソレイタ(日本ハムファイターズ)、レオン・リー(ロッテオリオンズ)という、パ・リーグを代表する4番打者を勝負どころでワンポイントで打ち取って、永射の名は一躍上がる。
結果的にその年から“スター選手”になるが、ペナントレース序盤、つまり広岡監督に喧嘩を売った時点で、永射はスターではなかった。
なんという度胸だろう。強心臓というだけでは、片付けられない。
「ワンポイントという仕事は性格的にも合っていた。みんなが『どうしようもない。困った』という場面で出ていって、抑えるというのは最高に気持ちがいいからね。それに、ほかのピッチャーの前ではガンガン打つ強打者が、僕の前でだけは腰砕けのスイングをする。こんな快感ないですよ」(『スポルティーバ』)
永射が出ていく局面は、基本的に勝ち試合の山場である。ここで一発打たれたら、試合はぶち壊し。投手がビビったら、試合は負けである。
大事な局面で強打者を迎えて、永射がビビる姿を見たことがない。
相当な大投手でも、勝負どころで強打者を迎えると、気を引き締めたり、呼吸を整えたりして自分を落ち着かせたりするものだ。内面の変化は表情や仕草に出るものだ。
だが、永射が「ふー」と大きく息を吐いたり、両肩をトントンと上下させたりして、リラックスしなくてはという雰囲気を醸している姿が思い浮かばない。実際には、やっているかもしれないが、そんなイメージがないのである。
と、ここまで書いてきて、永射のファンは彼の強心臓に魅せられたのではないか、と思えるのである。それと少年野球の主人公のような“真っすぐな精神”――
永射の「ワンポイントリリーフ」という職域の開拓。特異な投球フォームを支えた足腰、それを支えたランニング――。これらは“永射の凄さ”として語られたことはある。
心臓に毛の生えたようなメンタルの強さ。彼の愛すべき魅力の第一は、これではないかと思う。
プロ在籍19年の実績があって、現役卒業後は、コーチにもスカウトにもなっていない。生業は水商売だけである。野球関係は、リトルリーグの監督のみ。組織が使いにくい人だろうと思う。何しろ無名選手の分際で監督に喧嘩を売るのである。そこに永射の魅力がある。組織が“使いにくい”と思う“真っすぐな精神”の持ち主に、私もなりたい。

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